ズタズタになる・・・
今週末いよいよ二井原ソロライブin横浜(左Infomation参照!)ですがなぁ~~!!
曲数は正確には二日で32曲ある。
歌詞はほぼ体に入った。
あとは力いっぱい歌うだけです。
今から滅茶苦茶楽しみですわ!!
精一杯頑張りますぅ・・・・・!!!
ライブ来られる方、一緒に大合唱してね!
よろしく!!
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
東京へ出てきてあっという間にその年が終わった。
台風の中に放り込まれて嵐に身を任せたような1年だった。
そして年が明けた。
この年の正月に帰省したかどうか記憶に無い・・・・。
多分帰っていないと思う。
1982年、1月18日には東京中野サンプラザでJAPAN HEAVY METAL FANTASYと言うイヴェントが開催され、LOUDNESSもこのイヴェントに出演した。
他の出演バンドはバウワウ、子供バンド、シルバースターズ、北島健二と言う顔ぶれだった。
僕はこのイヴェントでズタズタになった。
リハーサルでは声も絶好調で問題なかったけれど、ライブが始まるや否や僕の喉は豹変した。
1曲目が始まり普段どおり歌い始めたのだが、ステージ上のモニターからは僕の声が全く力無く聞こえた。
声に力が無いと思うから力む、力めばもっと声が出ないと言う悪循環だった。
まさにやればやるほど、頑張れば頑張るほど逆の結果になった。
ついに声を出せども出せども、まったく出てこなくなった。
まるで大きな力で喉をブロックされたような感じであった。
声帯に空気は通っているのだが、もはや声帯は機能不全を起こしていた。
これは大きなステージ、大きな音、デッドな会場の特性でよく起こる聴覚上の錯覚なのだが、当時の僕にはそれが理解出来ないでいた。
今では、少し声を出せばその会場の特性を瞬時に把握して、どういう歌い方をすれば良いか冷静に判断できるが、当時の僕には全く理解できず大パニックになった。
この経験でLOUDNESSのような爆音バンドのステージで歌う難しさを思い知った。
ステージ上のモニターの加減、会場の響き、お客さんが音を吸収することなどでステージ上のヴォーカリストや演者に想像以上の影響を与える。
しかしながら、プロであるならそう言うことに対して上手く対処できてあたり前なのである。
僕は完全に素人であった・・・。
結局僕は2曲目以降、悲惨な醜態をさらけ出したまま立ち直ることも無くLOUDNESSの出番を終えた。
声がコントロールできないと言う恐怖を始めて知った。
この日から僕はステージに対してある種の恐怖感を抱くようになった。
いや、ステージだけでなく、歌うことに対して恐怖を抱くようになった。
声が出ない恐怖、声をコントロールできない恐怖、お客さんが落胆して熱が冷めて行く現実をステージの中央でいやと言うほど思い知ったのだ。
そして、この恐怖に数年悩まされることになった。
普段はアホな事ばかり言っているけれど、意外と歌うことに関しては神経質で繊細であったのだ。
歌う時にメンタルな部分で僕は重大な問題を抱えることになった。
とは言うものの、一人前のプロのヴォーカリストになるには絶対に超えなければならない壁ではあった。
その問題を瞬時で解決できるラッキーな人もいれば、相当時間がかかる人もいる。
僕のこの悩み、表面上は数年で解決したのだが、実のところ今でもその恐怖は僕の心の奥でトラウマとなっている。
イヴェント終了後、楽屋でマネージャーやプロデューサーからコテンパンに叱咤された。
僕は自分の未熟さを痛感した。
自分の置かれている立場や現実と自分の出来ることや実力のギャップに恐れおののいた。
頭がひどく混乱した。
ついに、僕は楽屋で悔しくて涙した。
子供バンド、バウワウ、の諸先輩の経験の差を思い知った。
何とかせねばならないと思った。
とにかく、ステージで自分の喉や歌を自在にコントロールできるようになることが一番の課題であった。
そしてこの問題はこれから続くであろうLOUDNESSのツアーと言う大事な仕事を乗り切れるかどうかの重要課題であった。
よくよく思えば、僕はさほどヴォーカル経験もないままプロになった。
リトルリーグの小学生がいきなりプロリーグに入ったようなものだった。
バンド内でも、タッカンとひぐっつあんとの経験差を一刻も早く縮める必要もあった。
ヴォーカリストとして僕が克服すべき課題は多く困難であり不可能なような気もした。
一方、バンドの外では日本中がにわかに騒がしくなっていた。
ついに、本格的にジャパニーズヘビーメタルと言う新たなムーブメントに火がつき始めてきたのだ。
誰がこのような現象を想像しただろうか?
今まで見向きもしていなかった人達もジャパニーズヘビーメタルの話題を始めるようになった。
いつのまにか「ジャパメタ」と呼ばれるようになった。
特に10代のロックキッズはジャパメタに目覚め熱狂した。
LOUDNESSを中心にヘビーメタルイヴェントが度々催された。
この一連のヘビーメタルイヴェントはまさにこのムーブメントのケツを蹴り上げるのに一役も二役も買った。
もはやこのジャパメタの嵐は誰にも止めることが出来ないほどの勢いを見せた。
“JAPAN HEAVY METAL FANTASY in Osaka” でLOUDNESSは大阪で始めてのライブを行った。
この大阪ライブは東京を遥かに上回る盛り上がりを見せ、暴動直前と思われるほどの異様な空気の中LOUDNESSは登場した。
ライブ直前にスタッフから「暴動の事態になったら即ライブ中止の合図を送りますから!」と言われ、かなり動揺したのを覚えている。
この大阪ライブ、LOUDNESS登場で暗転になった瞬間、男達の悲鳴に近い怒涛の歓声は27年たった今でも忘れることが出来ない。
僕の記憶が正しければ、確かこの大阪ライブでまだリリースされていないシングルの新曲”BURNIG LOVE”をやったように思う。
この時のオーディエンスの狂ったような猛烈ヘッドバンキングはいまだ鮮烈に覚えている。
残念ながらライブの内容はまったく覚えていないけれど、殺気立った会場内のオーディエンスの燃えるような眼差しは忘れることが出来ない。
この大阪ライブ終了後、プロデューサーより再び酷く叱咤を受けたのを覚えている。
LOUDNESSと言う爆音モンスターバンドで歌う難しさにもがき苦しんだ。
まだまだステージで歌えるようになるのには長い道のりが必要だった。
ステージと言うものは誰かが助けてくれるわけでも無い、自分で乗り越えるしかないのだ。
サウンドに負けない強靭な精神と強靭な喉を作り上げるしかないのだ。
ヘビーメタルを歌うと言うことは容易いことではない・・・・。
とにもかくにも、僕は日本中のロックキッズが”LOUDNESS!!!”と叫び声を上げていると感じた。
ヘビーメタルの為に命を落としても本望だと思った。
この時若干21歳だった僕はヘビーメタルに身も心も捧げる覚悟が出来た。
曲数は正確には二日で32曲ある。
歌詞はほぼ体に入った。
あとは力いっぱい歌うだけです。
今から滅茶苦茶楽しみですわ!!
精一杯頑張りますぅ・・・・・!!!
ライブ来られる方、一緒に大合唱してね!
よろしく!!
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
東京へ出てきてあっという間にその年が終わった。
台風の中に放り込まれて嵐に身を任せたような1年だった。
そして年が明けた。
この年の正月に帰省したかどうか記憶に無い・・・・。
多分帰っていないと思う。
1982年、1月18日には東京中野サンプラザでJAPAN HEAVY METAL FANTASYと言うイヴェントが開催され、LOUDNESSもこのイヴェントに出演した。
他の出演バンドはバウワウ、子供バンド、シルバースターズ、北島健二と言う顔ぶれだった。
僕はこのイヴェントでズタズタになった。
リハーサルでは声も絶好調で問題なかったけれど、ライブが始まるや否や僕の喉は豹変した。
1曲目が始まり普段どおり歌い始めたのだが、ステージ上のモニターからは僕の声が全く力無く聞こえた。
声に力が無いと思うから力む、力めばもっと声が出ないと言う悪循環だった。
まさにやればやるほど、頑張れば頑張るほど逆の結果になった。
ついに声を出せども出せども、まったく出てこなくなった。
まるで大きな力で喉をブロックされたような感じであった。
声帯に空気は通っているのだが、もはや声帯は機能不全を起こしていた。
これは大きなステージ、大きな音、デッドな会場の特性でよく起こる聴覚上の錯覚なのだが、当時の僕にはそれが理解出来ないでいた。
今では、少し声を出せばその会場の特性を瞬時に把握して、どういう歌い方をすれば良いか冷静に判断できるが、当時の僕には全く理解できず大パニックになった。
この経験でLOUDNESSのような爆音バンドのステージで歌う難しさを思い知った。
ステージ上のモニターの加減、会場の響き、お客さんが音を吸収することなどでステージ上のヴォーカリストや演者に想像以上の影響を与える。
しかしながら、プロであるならそう言うことに対して上手く対処できてあたり前なのである。
僕は完全に素人であった・・・。
結局僕は2曲目以降、悲惨な醜態をさらけ出したまま立ち直ることも無くLOUDNESSの出番を終えた。
声がコントロールできないと言う恐怖を始めて知った。
この日から僕はステージに対してある種の恐怖感を抱くようになった。
いや、ステージだけでなく、歌うことに対して恐怖を抱くようになった。
声が出ない恐怖、声をコントロールできない恐怖、お客さんが落胆して熱が冷めて行く現実をステージの中央でいやと言うほど思い知ったのだ。
そして、この恐怖に数年悩まされることになった。
普段はアホな事ばかり言っているけれど、意外と歌うことに関しては神経質で繊細であったのだ。
歌う時にメンタルな部分で僕は重大な問題を抱えることになった。
とは言うものの、一人前のプロのヴォーカリストになるには絶対に超えなければならない壁ではあった。
その問題を瞬時で解決できるラッキーな人もいれば、相当時間がかかる人もいる。
僕のこの悩み、表面上は数年で解決したのだが、実のところ今でもその恐怖は僕の心の奥でトラウマとなっている。
イヴェント終了後、楽屋でマネージャーやプロデューサーからコテンパンに叱咤された。
僕は自分の未熟さを痛感した。
自分の置かれている立場や現実と自分の出来ることや実力のギャップに恐れおののいた。
頭がひどく混乱した。
ついに、僕は楽屋で悔しくて涙した。
子供バンド、バウワウ、の諸先輩の経験の差を思い知った。
何とかせねばならないと思った。
とにかく、ステージで自分の喉や歌を自在にコントロールできるようになることが一番の課題であった。
そしてこの問題はこれから続くであろうLOUDNESSのツアーと言う大事な仕事を乗り切れるかどうかの重要課題であった。
よくよく思えば、僕はさほどヴォーカル経験もないままプロになった。
リトルリーグの小学生がいきなりプロリーグに入ったようなものだった。
バンド内でも、タッカンとひぐっつあんとの経験差を一刻も早く縮める必要もあった。
ヴォーカリストとして僕が克服すべき課題は多く困難であり不可能なような気もした。
一方、バンドの外では日本中がにわかに騒がしくなっていた。
ついに、本格的にジャパニーズヘビーメタルと言う新たなムーブメントに火がつき始めてきたのだ。
誰がこのような現象を想像しただろうか?
今まで見向きもしていなかった人達もジャパニーズヘビーメタルの話題を始めるようになった。
いつのまにか「ジャパメタ」と呼ばれるようになった。
特に10代のロックキッズはジャパメタに目覚め熱狂した。
LOUDNESSを中心にヘビーメタルイヴェントが度々催された。
この一連のヘビーメタルイヴェントはまさにこのムーブメントのケツを蹴り上げるのに一役も二役も買った。
もはやこのジャパメタの嵐は誰にも止めることが出来ないほどの勢いを見せた。
“JAPAN HEAVY METAL FANTASY in Osaka” でLOUDNESSは大阪で始めてのライブを行った。
この大阪ライブは東京を遥かに上回る盛り上がりを見せ、暴動直前と思われるほどの異様な空気の中LOUDNESSは登場した。
ライブ直前にスタッフから「暴動の事態になったら即ライブ中止の合図を送りますから!」と言われ、かなり動揺したのを覚えている。
この大阪ライブ、LOUDNESS登場で暗転になった瞬間、男達の悲鳴に近い怒涛の歓声は27年たった今でも忘れることが出来ない。
僕の記憶が正しければ、確かこの大阪ライブでまだリリースされていないシングルの新曲”BURNIG LOVE”をやったように思う。
この時のオーディエンスの狂ったような猛烈ヘッドバンキングはいまだ鮮烈に覚えている。
残念ながらライブの内容はまったく覚えていないけれど、殺気立った会場内のオーディエンスの燃えるような眼差しは忘れることが出来ない。
この大阪ライブ終了後、プロデューサーより再び酷く叱咤を受けたのを覚えている。
LOUDNESSと言う爆音モンスターバンドで歌う難しさにもがき苦しんだ。
まだまだステージで歌えるようになるのには長い道のりが必要だった。
ステージと言うものは誰かが助けてくれるわけでも無い、自分で乗り越えるしかないのだ。
サウンドに負けない強靭な精神と強靭な喉を作り上げるしかないのだ。
ヘビーメタルを歌うと言うことは容易いことではない・・・・。
とにもかくにも、僕は日本中のロックキッズが”LOUDNESS!!!”と叫び声を上げていると感じた。
ヘビーメタルの為に命を落としても本望だと思った。
この時若干21歳だった僕はヘビーメタルに身も心も捧げる覚悟が出来た。
by loudness_ex
| 2008-07-29 14:57
