生活
ご意見、感想、などがあればいつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕からの返信は期待しないでください。
必要だと思ったら返信しますけど・・・。
*******************
Beingとの契約が済んでから僕の生活が激変した。
まず、ひぐっつあんでの居候生活に終止符が打たれた。
その前に少しだけ僕の居候時代のお話を・・・(笑)
ひぐっつあんでの居候期間は3ヶ月ほどだったけれど、その間に8キロは太った。
僕が上京した時の体重は46キロしかなくて、絵に描いたような骨皮筋衛門だった。
居候生活は不健康で不摂生な生活ではあったけれど、ひぐっつあんとの生活は楽しかった。
ひぐっつあんにあっちこっち連れて行ってもらい、ちょっと大人の世界に触れ、純情青年が少しオマセになった。
高校時代は男子校で男に囲まれていた上、3年間と言うものバンド活動に明け暮れ夜や休日は楽器の練習や音楽鑑賞に打ち込んでいた。
当時流行っていたディスコとかにも行ったことが無かったし、ファッションやバイクにもまったく興味が無かった。
大学の3年間も、入学後すぐにステディーのガールフレンドが出来たので、所謂ナンパみたいなこともやったことがなかったし、サークルの打ち上げ以外で呑み会のようなこともやったことがなかった。
だいたい夜遊びに出かける余裕も無ければ興味も皆無だった。
当時の仏教大学はまさに女子大かと思うぐらいに女性が多かったのに、今思い返してもガールフレンド以外大学内で記憶に残るような女性の友達は少なかった。
ん~こうして考えると、スタジオ、ライブハウス、下宿、軽音部室が僕の生活圏のすべてであったのか・・・地味・・・。
学生の頃の思い出と言っても、唯一あるのは軽音楽部の夏合宿に一度だけ参加したことぐらいか。
場所は四国だったかのサーフィンの名所だった。
先輩にサーファーがいたのでそこが合宿所になったと思うのだけど、そこではじめてサーフィンなるものを経験したことが思い出としてあるなぁ。
はっきり言って、音楽活動以外はあまりパッとしない冴えない学生生活だった。
ひぐっつあんの居候の間に初めて夜の世界へデビューした。
ディスコにも行った、バーにも行った、ひぐっつあんの友達のモデルさんやら、スッチーやら、タレントさんやら、それまでに見たことも無いような洗練されたセクシーで美しい女性に囲まれた。
とは言っても、その美しい女性たちは皆さんひぐっつあんがお目当てであり、上京したてのどこの馬の骨かも分からない僕なんか鼻にもかけてもらえなかったけど、それなりに楽しかった。
呑みに行ってひぐっつあんに毎回奢ってもらうわけにも行かず、とは言っても僕はお金を当然持っていなかったけど、ひょんなことから呑み代を稼ぎ出す方法にありついた。
例えば、ちょっと高級なバーなんかでは殆どのお店にはピアノがあって、僕がそこのバーのピアノで弾き語りをしたら店のママに気に入られることが多く、度々呑み代がサービスになった。
その代わり、ママのリクエストがあれば何でも歌わなければならなかったけど・・・。
バンドが入っているバーは願ったり叶ったりだった。
そのバンド演奏に飛び入りして数曲歌ったら、そこの店のマスターに気に入られて大概呑み代がサービスになったので貧乏な僕には助かった。
まさに、芸は身を助けるであった・・・・。(笑)
そんな居候生活も終わり、自分の部屋を持つことになった。
契約で2年間は事務所から毎月一定の収入を得ることになったからだ。
僕が貰っていたのは所謂会社のサラリーマンが貰うような性格の「給料」では無くて、敢えて言うなら借金みたいなものだったけれど、まー返済の義務が無かったので「給料」と言っても良いだろう。
学生の頃はアルバイトで稼いでも数万円が限界だったし、ポケットには千円札が入っていれば御の字だったので、事務所から出た金額は物凄い大金に思えた。
部屋を借りることになって、不動産屋へ行って東京の現実を思い知ることになる。
それまで京都の学生下宿はだいたい12000円~25000円で僕の最後の部屋は6千円の家賃だった。
東京でも多分探せばあったのだろうけど、ひぐっつあんやタッカンの生活レベルに影響を受けたせいもあったと思う、世田谷、目黒、渋谷、六本木界隈で風呂のある部屋にこだわったら、ワンルームで最低でも5万円が必要だった。
部屋代、光熱費、食事代、通信費、交通費で事務所から出たお金は殆ど消えた・・。
月末には無銭状態になることが常だった。
兎にも角にも、東京で自分の部屋を持てたのは嬉しかった。
初めての部屋は東急田園都市線の駒沢大学駅そばだった。
ワンルームで、5畳ほどの部屋にユニットバスだった。
引越しはマー君が手伝ってくれた。
マー君がバンを運転して大阪から東京まで僕の生活道具を運んでくれた。
アースシェイカーで使っていたミュージックマンのベースは電話を引くために消えた・・・。
京都のガールフレンドの物も少しだけ持ってきた。
母親が鍋やら食器、お箸、スプーン、フォーク、下着、靴下、セーター、布団一式などを荷物につめて持たせてくれた、本当に有難かった・・・。
そして、秋葉原で電化製品をひとしきり揃えた。
7月初夏、ついに東京で自分の部屋を持って僕の生活がスタートした。
僕の生活環境が変わり同時にLOUDNESSの活動も本格的に忙しくなってきた。
連日ビーングの事務所でミーティングがあった。
デビューに先立って、バンドがどんな打ち出し方をするのが良いのか?
バンドイメージは?バンドの音楽性は?宣伝は?
僕達は事務所のプロデューサーと話し合いを重ねた。
ある日、事務所のプロデューサーから意外な発言が飛び出た。
「LOUDNESSって名前ダサクない?もっと他のにしようよ!絶対にLOUDNESSじゃ売れないよ・・・」
プロデューサの発言に僕達は言葉を失った・・・。
数人のプロデューサーが他のバンド名のアイデアを数個出してきた。
「この中から選んでほしい・・・」
候補の名前を一通り見た。
どれも、悪くは無いけれど今一インパクトに欠けていると感じた。
「LOUDNESSはダメ」と言う事務所側とバンドで意見が平行線となった。
何故「LOUDNESS」がダメなのかと言う理由も説得力も希薄だった。
結局、僕達は「LOUDNESS」と言う名前にこだわった。
最終的には事務所側が折れた。
やっとバンド名に関しては決着した・・・
次はバンドイメージをどうするのか?
それぞれのメンバーのイメージ戦略を具体的に話し合うことになった。
僕はもう何でも良かった。
悪魔でも、天使でも、野獣でも・・・・
(ロックとは言えそれを売るためには面倒なことが多いなぁ・・・)
マネージメントのコマーシャリズムな空気に少し息苦しくなった。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕からの返信は期待しないでください。
必要だと思ったら返信しますけど・・・。
*******************
Beingとの契約が済んでから僕の生活が激変した。
まず、ひぐっつあんでの居候生活に終止符が打たれた。
その前に少しだけ僕の居候時代のお話を・・・(笑)
ひぐっつあんでの居候期間は3ヶ月ほどだったけれど、その間に8キロは太った。
僕が上京した時の体重は46キロしかなくて、絵に描いたような骨皮筋衛門だった。
居候生活は不健康で不摂生な生活ではあったけれど、ひぐっつあんとの生活は楽しかった。
ひぐっつあんにあっちこっち連れて行ってもらい、ちょっと大人の世界に触れ、純情青年が少しオマセになった。
高校時代は男子校で男に囲まれていた上、3年間と言うものバンド活動に明け暮れ夜や休日は楽器の練習や音楽鑑賞に打ち込んでいた。
当時流行っていたディスコとかにも行ったことが無かったし、ファッションやバイクにもまったく興味が無かった。
大学の3年間も、入学後すぐにステディーのガールフレンドが出来たので、所謂ナンパみたいなこともやったことがなかったし、サークルの打ち上げ以外で呑み会のようなこともやったことがなかった。
だいたい夜遊びに出かける余裕も無ければ興味も皆無だった。
当時の仏教大学はまさに女子大かと思うぐらいに女性が多かったのに、今思い返してもガールフレンド以外大学内で記憶に残るような女性の友達は少なかった。
ん~こうして考えると、スタジオ、ライブハウス、下宿、軽音部室が僕の生活圏のすべてであったのか・・・地味・・・。
学生の頃の思い出と言っても、唯一あるのは軽音楽部の夏合宿に一度だけ参加したことぐらいか。
場所は四国だったかのサーフィンの名所だった。
先輩にサーファーがいたのでそこが合宿所になったと思うのだけど、そこではじめてサーフィンなるものを経験したことが思い出としてあるなぁ。
はっきり言って、音楽活動以外はあまりパッとしない冴えない学生生活だった。
ひぐっつあんの居候の間に初めて夜の世界へデビューした。
ディスコにも行った、バーにも行った、ひぐっつあんの友達のモデルさんやら、スッチーやら、タレントさんやら、それまでに見たことも無いような洗練されたセクシーで美しい女性に囲まれた。
とは言っても、その美しい女性たちは皆さんひぐっつあんがお目当てであり、上京したてのどこの馬の骨かも分からない僕なんか鼻にもかけてもらえなかったけど、それなりに楽しかった。
呑みに行ってひぐっつあんに毎回奢ってもらうわけにも行かず、とは言っても僕はお金を当然持っていなかったけど、ひょんなことから呑み代を稼ぎ出す方法にありついた。
例えば、ちょっと高級なバーなんかでは殆どのお店にはピアノがあって、僕がそこのバーのピアノで弾き語りをしたら店のママに気に入られることが多く、度々呑み代がサービスになった。
その代わり、ママのリクエストがあれば何でも歌わなければならなかったけど・・・。
バンドが入っているバーは願ったり叶ったりだった。
そのバンド演奏に飛び入りして数曲歌ったら、そこの店のマスターに気に入られて大概呑み代がサービスになったので貧乏な僕には助かった。
まさに、芸は身を助けるであった・・・・。(笑)
そんな居候生活も終わり、自分の部屋を持つことになった。
契約で2年間は事務所から毎月一定の収入を得ることになったからだ。
僕が貰っていたのは所謂会社のサラリーマンが貰うような性格の「給料」では無くて、敢えて言うなら借金みたいなものだったけれど、まー返済の義務が無かったので「給料」と言っても良いだろう。
学生の頃はアルバイトで稼いでも数万円が限界だったし、ポケットには千円札が入っていれば御の字だったので、事務所から出た金額は物凄い大金に思えた。
部屋を借りることになって、不動産屋へ行って東京の現実を思い知ることになる。
それまで京都の学生下宿はだいたい12000円~25000円で僕の最後の部屋は6千円の家賃だった。
東京でも多分探せばあったのだろうけど、ひぐっつあんやタッカンの生活レベルに影響を受けたせいもあったと思う、世田谷、目黒、渋谷、六本木界隈で風呂のある部屋にこだわったら、ワンルームで最低でも5万円が必要だった。
部屋代、光熱費、食事代、通信費、交通費で事務所から出たお金は殆ど消えた・・。
月末には無銭状態になることが常だった。
兎にも角にも、東京で自分の部屋を持てたのは嬉しかった。
初めての部屋は東急田園都市線の駒沢大学駅そばだった。
ワンルームで、5畳ほどの部屋にユニットバスだった。
引越しはマー君が手伝ってくれた。
マー君がバンを運転して大阪から東京まで僕の生活道具を運んでくれた。
アースシェイカーで使っていたミュージックマンのベースは電話を引くために消えた・・・。
京都のガールフレンドの物も少しだけ持ってきた。
母親が鍋やら食器、お箸、スプーン、フォーク、下着、靴下、セーター、布団一式などを荷物につめて持たせてくれた、本当に有難かった・・・。
そして、秋葉原で電化製品をひとしきり揃えた。
7月初夏、ついに東京で自分の部屋を持って僕の生活がスタートした。
僕の生活環境が変わり同時にLOUDNESSの活動も本格的に忙しくなってきた。
連日ビーングの事務所でミーティングがあった。
デビューに先立って、バンドがどんな打ち出し方をするのが良いのか?
バンドイメージは?バンドの音楽性は?宣伝は?
僕達は事務所のプロデューサーと話し合いを重ねた。
ある日、事務所のプロデューサーから意外な発言が飛び出た。
「LOUDNESSって名前ダサクない?もっと他のにしようよ!絶対にLOUDNESSじゃ売れないよ・・・」
プロデューサの発言に僕達は言葉を失った・・・。
数人のプロデューサーが他のバンド名のアイデアを数個出してきた。
「この中から選んでほしい・・・」
候補の名前を一通り見た。
どれも、悪くは無いけれど今一インパクトに欠けていると感じた。
「LOUDNESSはダメ」と言う事務所側とバンドで意見が平行線となった。
何故「LOUDNESS」がダメなのかと言う理由も説得力も希薄だった。
結局、僕達は「LOUDNESS」と言う名前にこだわった。
最終的には事務所側が折れた。
やっとバンド名に関しては決着した・・・
次はバンドイメージをどうするのか?
それぞれのメンバーのイメージ戦略を具体的に話し合うことになった。
僕はもう何でも良かった。
悪魔でも、天使でも、野獣でも・・・・
(ロックとは言えそれを売るためには面倒なことが多いなぁ・・・)
マネージメントのコマーシャリズムな空気に少し息苦しくなった。
by loudness_ex
| 2008-06-23 12:33
