契約
前回「コメントが収拾がつかなくなるとブログ終了します」と書いたら「絶対に続けて~~!!」と悲鳴に近い嘆願メールが沢山届きました。
「終了」はまずあり得ませんのでご心配は無用ですよ!
ご意見、感想、聞きたいことなどがあればいつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
個人へメールの返事は基本的にはしません。(ごめちゃい!)
でも気が向いたり必要であると思ったらご返事することもたまにありますけど、どの道あまり期待しないで下さい。
でも、頂いたメールにはすべて目を通しています。
厳しいお言葉にはすぐにへこんでしまうダメな気が小さい野郎なもので・・・
メールはお手柔らかによろしく!
*************
前回、「そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・」と書いたのだが、後でよくよく考えると、日本コロンビアが先に決まっていて、その後「Being」と契約だったかもしれない・・・。
東京の赤坂には通称コロンビア通りと言う通りがあって、その通り沿いにでっかい日本コロンビアの本社ビルがあった。
マー君がバンドに合流して間も無く、僕達は日本コロンビアの本社ビルの地下一階にあったスタジオで曲作りをやり始めている。
どういう経緯で日本コロンビアのスタジオでやることになったのか具体的な理由を僕は知らない・・・。
とにかく、マネージメントBeingが決まる前から赤坂にあった日本コロンビアのスタジオでリハーサルや曲作りをやっていたのを思い出した。
これには、先に登場していたTレコードのNさんのサポートや尽力があったのだろう。
京都で始めてタッカンと会った時、TレコードのNさんという風に紹介をされたので、僕はてっきりこのプロジェクトはTレコードが絡んでいるものだと思っていた。
上京後、何度かNさん達とミーティングをして行く中で、どうやらそういう話でもないと言うことが分かった。
要するに、LAZYデビューの頃から付き合いのあったNさんは、あくまでもLAZY解散後のタッカンのアーティスト活動の為の相談役であり、必要な時はNさんが個人的にタッカンのために動き回っていたようで、Tレコードがこのプロジェクトに関係しているという話ではなかったようだった。
それにしても、Nさんがタッカンのレコードディールを取るために尽力されたのは間違いない。
さて、結果的に日本コロンビアが「LOUDNESS」に手を上げたという形になるのだが、これもよくよく考えると「LOUDNESS」と言うより「高崎晃ソロプロジェクト」として話が先にまとまっていたのではないかとも思える・・。
そしてその「高崎晃ソロプロジェクト」が「LOUDNESS」へとシフトしたと言うことだったのかもしれない。
何分、この頃の僕は、京都から出てきたばかりの新参者だったのでその辺の大人の事情や話には一切関わることがなかったので知る由もない・・。
レコード会社「日本コロンビア」が先かマネージメント「Being」が先かはこの際どうでも良い。
と言うのも、今はどうか分からないけれど、1981年あの頃はレコード会社と直にアーティストが専属契約を結ぶということは無く、そう言う事が出来ない仕組みになっていて、必ずマネージメントの存在が必要であった。
レコード会社が決まっているのであればマネージメントは同じ時期にほぼ間違いなく決まるからである。
ちなみに、分かりやすその構図を説明すると、レコード会社は言うならば「財務省」である。
レコード会社はアルバム制作費や宣伝費、アーティスト育成金やコンサート助成金(今ではこんな予算が存在するのかどうか分からないけれど・・)などの予算を出す立場であった。
マネージメントはそれらの予算を受け取り、そのアーティストのアルバム製作をやり、コンサートをやり、アーティストのスケジュール管理など考えられるあらゆる必要なことを全て引き受ける言わば「出先機関」のようなものであった。
これはあくまで1981年当時の話なので、多くが外資系の会社に変貌している現在のレコード会社の現状やシステムに関してはまったく不明だ。
この契約の形態を3者契約と呼ぶのだけど、マネージメント、アーティスト、レコード会社の3者が契約して始めて契約が成立と言うことだ。
これはあくまでも紳士協定的な原則であり当然例外も存在していただろうとは思う。
他に、この業界の代表的な紳士協定には「契約が解除されたらある一定期間はアルバム類を他社から出せない」と言うのがある。
要するに、いかなる理由があってもレコード会社と契約が切れた場合、ある一定の期間(半年~1年ほど)はリリース関係の活動が出来ないようなお約束があった、今はその辺どうなのかな?
何故そんな決まりごとが存在していたのかは分からない、ペナルティー的なことなのか?
とは言うものの、この紳士協定は法的な拘束力は無いので、強引に紳士協定を破ることも可能ではあったけれど、この狭い業界それをやったらどうなるかは火を見るより明らかだ。
マネージメントとしてBeingが名乗りを上げたのは既に書いた。
LOUDNESSをコントロールする主導権はBeingが握った。
Beingに関しては最早説明は不要だろう・・・。
1990年代に、B’zやTUBEなど日本のオリコンヒットチャートをBeingのアーティスト一色に染め上げた音楽制作頭脳集団である。
1981年にLOUDNESSがBeingと出会った頃はまだ出来たばかりのプロダクションであり、六本木のビルのワンフロアにその事務所を構えていた。
スタッフも少なく所属アーティストも少なかった。
ちなみに、その頃いたアーティストはギターリストの北島健二さん、織田哲郎さん、笹路 正徳さん率いる凄腕スタジオプレイヤー軍団のマライヤであった。
そのマライヤには清水靖晃さん、土方隆行さん、渡辺モリオさん、村川ジミー聡さん、山木秀夫さんなど目がくらむようなプロフェッショナルミュージシャンが名前を連ねていた。
ある日、僕たち4人はその六本木のBeingの事務所に呼ばれた。
そこで出迎えてくれたのはBeingの社長であるNDさん(この有名な社長を伏字にする必要があるのかわからないけれど、面倒なので伏字にさせてもらう・・)だった。
他にも数人若手のプロデューサーが同席をしていた。
社長のNさんが僕達に合うなり興奮気味に「リハーサルのテープを聞かせてももらったよ!!今までに無い新しいハードロックバンドだと思う。君達にはとても可能性を感じる!是非一緒にやりましょう!」と言う事だった。
当然、僕達には断る理由も無くLOUDNESSはそのままBeingとマネージメント契約を交わした。
こうしてLOUDNESSは着々とデビューに向かって動き出したのである。
僕はBeingとマネージメント契約を交わし、その月末からいきなり大卒初任給以上の給料を貰うことになった・・・。
僕にとっては見たこともない大金だった・・
「終了」はまずあり得ませんのでご心配は無用ですよ!
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vocalism.niihara@gmail.com
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でも気が向いたり必要であると思ったらご返事することもたまにありますけど、どの道あまり期待しないで下さい。
でも、頂いたメールにはすべて目を通しています。
厳しいお言葉にはすぐにへこんでしまうダメな気が小さい野郎なもので・・・
メールはお手柔らかによろしく!
*************
前回、「そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・」と書いたのだが、後でよくよく考えると、日本コロンビアが先に決まっていて、その後「Being」と契約だったかもしれない・・・。
東京の赤坂には通称コロンビア通りと言う通りがあって、その通り沿いにでっかい日本コロンビアの本社ビルがあった。
マー君がバンドに合流して間も無く、僕達は日本コロンビアの本社ビルの地下一階にあったスタジオで曲作りをやり始めている。
どういう経緯で日本コロンビアのスタジオでやることになったのか具体的な理由を僕は知らない・・・。
とにかく、マネージメントBeingが決まる前から赤坂にあった日本コロンビアのスタジオでリハーサルや曲作りをやっていたのを思い出した。
これには、先に登場していたTレコードのNさんのサポートや尽力があったのだろう。
京都で始めてタッカンと会った時、TレコードのNさんという風に紹介をされたので、僕はてっきりこのプロジェクトはTレコードが絡んでいるものだと思っていた。
上京後、何度かNさん達とミーティングをして行く中で、どうやらそういう話でもないと言うことが分かった。
要するに、LAZYデビューの頃から付き合いのあったNさんは、あくまでもLAZY解散後のタッカンのアーティスト活動の為の相談役であり、必要な時はNさんが個人的にタッカンのために動き回っていたようで、Tレコードがこのプロジェクトに関係しているという話ではなかったようだった。
それにしても、Nさんがタッカンのレコードディールを取るために尽力されたのは間違いない。
さて、結果的に日本コロンビアが「LOUDNESS」に手を上げたという形になるのだが、これもよくよく考えると「LOUDNESS」と言うより「高崎晃ソロプロジェクト」として話が先にまとまっていたのではないかとも思える・・。
そしてその「高崎晃ソロプロジェクト」が「LOUDNESS」へとシフトしたと言うことだったのかもしれない。
何分、この頃の僕は、京都から出てきたばかりの新参者だったのでその辺の大人の事情や話には一切関わることがなかったので知る由もない・・。
レコード会社「日本コロンビア」が先かマネージメント「Being」が先かはこの際どうでも良い。
と言うのも、今はどうか分からないけれど、1981年あの頃はレコード会社と直にアーティストが専属契約を結ぶということは無く、そう言う事が出来ない仕組みになっていて、必ずマネージメントの存在が必要であった。
レコード会社が決まっているのであればマネージメントは同じ時期にほぼ間違いなく決まるからである。
ちなみに、分かりやすその構図を説明すると、レコード会社は言うならば「財務省」である。
レコード会社はアルバム制作費や宣伝費、アーティスト育成金やコンサート助成金(今ではこんな予算が存在するのかどうか分からないけれど・・)などの予算を出す立場であった。
マネージメントはそれらの予算を受け取り、そのアーティストのアルバム製作をやり、コンサートをやり、アーティストのスケジュール管理など考えられるあらゆる必要なことを全て引き受ける言わば「出先機関」のようなものであった。
これはあくまで1981年当時の話なので、多くが外資系の会社に変貌している現在のレコード会社の現状やシステムに関してはまったく不明だ。
この契約の形態を3者契約と呼ぶのだけど、マネージメント、アーティスト、レコード会社の3者が契約して始めて契約が成立と言うことだ。
これはあくまでも紳士協定的な原則であり当然例外も存在していただろうとは思う。
他に、この業界の代表的な紳士協定には「契約が解除されたらある一定期間はアルバム類を他社から出せない」と言うのがある。
要するに、いかなる理由があってもレコード会社と契約が切れた場合、ある一定の期間(半年~1年ほど)はリリース関係の活動が出来ないようなお約束があった、今はその辺どうなのかな?
何故そんな決まりごとが存在していたのかは分からない、ペナルティー的なことなのか?
とは言うものの、この紳士協定は法的な拘束力は無いので、強引に紳士協定を破ることも可能ではあったけれど、この狭い業界それをやったらどうなるかは火を見るより明らかだ。
マネージメントとしてBeingが名乗りを上げたのは既に書いた。
LOUDNESSをコントロールする主導権はBeingが握った。
Beingに関しては最早説明は不要だろう・・・。
1990年代に、B’zやTUBEなど日本のオリコンヒットチャートをBeingのアーティスト一色に染め上げた音楽制作頭脳集団である。
1981年にLOUDNESSがBeingと出会った頃はまだ出来たばかりのプロダクションであり、六本木のビルのワンフロアにその事務所を構えていた。
スタッフも少なく所属アーティストも少なかった。
ちなみに、その頃いたアーティストはギターリストの北島健二さん、織田哲郎さん、笹路 正徳さん率いる凄腕スタジオプレイヤー軍団のマライヤであった。
そのマライヤには清水靖晃さん、土方隆行さん、渡辺モリオさん、村川ジミー聡さん、山木秀夫さんなど目がくらむようなプロフェッショナルミュージシャンが名前を連ねていた。
ある日、僕たち4人はその六本木のBeingの事務所に呼ばれた。
そこで出迎えてくれたのはBeingの社長であるNDさん(この有名な社長を伏字にする必要があるのかわからないけれど、面倒なので伏字にさせてもらう・・)だった。
他にも数人若手のプロデューサーが同席をしていた。
社長のNさんが僕達に合うなり興奮気味に「リハーサルのテープを聞かせてももらったよ!!今までに無い新しいハードロックバンドだと思う。君達にはとても可能性を感じる!是非一緒にやりましょう!」と言う事だった。
当然、僕達には断る理由も無くLOUDNESSはそのままBeingとマネージメント契約を交わした。
こうしてLOUDNESSは着々とデビューに向かって動き出したのである。
僕はBeingとマネージメント契約を交わし、その月末からいきなり大卒初任給以上の給料を貰うことになった・・・。
僕にとっては見たこともない大金だった・・
by loudness_ex
| 2008-06-20 13:05
