LOUDNESS 誕生!
Lazyのベースだったファニーことひろゆき君、まさに発車前に下車した感じだった。
物事が何も始まっていなかったので「脱退」と言う言葉は不適切かと思う。
ひろゆき君にはひろゆき君の,やりたいことがあったのだから仕方があるまい。
彼との交流は本当に短いものだった。
オーディションで始めて会った時、上京後のミーティングで数回、それがすべてだった。
彼の人柄などを良く知るほどには十分な付き合いが無かった。
どちらかと言えば、むしろ僕は彼のことをあまりよく知らないと言ったほうが良いかもしれない。
ただ印象としては、あの優しい笑顔のままの人だったと思う。
結局彼は後に、ポッキーこと井上俊次さんとNEVER LANDを結成して、僕は彼等のデビュー当時のライブを一度だけ観たことがあった。
とてもキャッチーで暖かな曲が多く、バンドメンバーの人柄がそのまま音に反映された優しいポップなバンドだった。
そのライブ以降、彼とは全く音信不通となり、LAZYの再結成の赤坂ブリッズ公演で客席からひろゆき君のことを観たのがネバーランドライブ以来であり、それが生きている彼を見る最後となった。
景山君や井上君はたまにLOUDNESSの楽屋へ陣中見舞いに来ることがあったけれど、ひろゆき君は殆ど来なかったと思う。
ひろゆき君に関して唯一の僕の思い出は、部屋の掃除が大の苦手なひろゆき君、僕が彼の部屋へ遊びに行くことになったので夜を徹して部屋の掃除をしてくれたこと・・。
「掃除大変やってんで~~~!」と言って僕を部屋に招き入れてくれた。
とても綺麗に掃除されていたので「そうなん?目茶綺麗な部屋やん!」と僕が言ったら、隣の部屋を見せてくれて「これがいつもの状態やねん!」と言って,泥棒が入った後のように見事に散らかった部屋を見せてくれて二人で大笑いしたことがあった。
2年前にそんな彼が急死したと言う知らせを受けた・・・。
ご冥福を祈る・・・・・。
タッカンが「幼なじみでベース弾ける奴がおんねん。」と言って,マー君を大阪から呼んだのはひろゆき君がこのプロジェクトに参加しないと決まって数日後だったと思う。
初めてマー君と合流した場所は失念したけれど、マー君はロックっぽいTシャツに黒と白の縦縞のタイトジーンズにカーリーヘアーと言う出で立ちだったのは良く覚えている。
とても細身でお人形さんのような愛くるしい青年だった。

右手にはベースのハードケースで中には白のリッケンバッカーが入っていた。
「まいど!」恥ずかしげに挨拶してくれた時、あのオーディションの夜焼き鳥屋「大吉」にいた人だとすぐに思い出した。
マー君は「アースシェイカー結構見に行ってたで~~」と言って笑っていた。
RUSHが大好きだと言うマー君とはすぐに意気投合した。
それまで僕は大阪から上京したてで、東京のことやプロの音楽の世界のことも、右左何も分からなかっただけに同志が出来たような気がして嬉しかったし、心強くなった。
僕達はすぐにスタジオに入ってセッションを始めた。
マー君のベースはひろゆき君とは明らかに違うタイプでマー君のそれは攻撃的でリッケンバッカー特有のゴリゴリしたサウンドが新鮮だった。
こうして高崎晃プロジェクトの名の下、4人のメンバーが揃うことになった・・・。
僕達はスタジオでセッションを繰り返しながらタッカンのリフを中心に曲作りも始めた。
毎日最低6時間ほどは演奏に没頭した。
僕たち4人は一つのリフから延々とインプロビゼーションで曲を膨らませて行った。
その間、殆ど会話らしい会話は無かった。
ただひたすらに演奏に没頭した。
セッション中、僕はアースシェイカーでやっていた時と同じように、皆の演奏を聴きながら思いつくまま出鱈目にただひたすらに叫びまくった。
そして、みんなの白熱するセッションのうねりから色んなイメージを受け取り、ヴォーカルメロディーをひらめきで作っていった。
あの時の4人のエネルギーは本当に凄まじかったと思う。
タッカンもひぐっつあんもマキシマムのパワーでロックしていた。
セッション中のタッカンのギターはまさに驚異的だった。
タッカンの指から溢れ出てくるギターリフも即興のギターソロも何もかもが神憑っていた。
そのギターに触発されたひぐっつあんもあり得ないような爆発したドラミングだった。
ひぐっつあんは脅威のスピードと怒涛のラウドドラム炸裂で益々スタジオ内を盛り上げ、4人の感情の導火線に火をつけた。
僕達はヘロヘロになるまでセッションを続けた・・・。
そしてその演奏をタッカンのカセットテープレコーダーで毎回録音した。
録音と言ってもMTRのようなものではなく、ラジカセの小さな奴をスタジオの中央に置いてせーので演奏したものを一発録音したものだった。

そんなセッションを繰り返していたある日、僕達はタッカンの家にいた。
セッションテープを聴きながら「おぉ!!このフレーズ凄いなぁ!!」とか「このメロディーのシャウト格好エエな」とか「このギターソロは病気やな・・」とか、僕の出鱈目な英語歌(ハナモゲラ唱法)に皆で大笑いしたりしている時、ひぐっつあんが(だと思う)「これで俺達バンドとしてせーへんか?」と提案した。
当初はあくまで高崎晃ソロプロジェクトとして始まったプロジェクトだったけれど、セッションを通じて自分達の作り出す音楽やロックに確固たる自信と確信を得たのだ。
「そうやな~~そうしょうか!」タッカンも同意した。
僕もマー君も異論があるわけが無い。
「バンド名どないする?」とひぐっつあんが言った。
この時にバンド名が決まったのだけど、バンド名の決定の経緯には色んな諸説があり今や僕も「これが真相だ!」と言う自信が無い・・・。
ただ、僕の記憶では、誰かがステレオのアンプに書いてあるLOUDNESSと言う文字を指差した。

「このLOUDNESSって格好ええんちゃうか?」と言った場面を記憶しているのだが・・。
それを聞いたタッカンが辞書で「LOUDNESS」を調べて「意味は・・・大声、騒々しさ、派手さ・・・おぉ!意味も格好ええぞ!!これにしようや!」となったと思う。
意外とバンド名は難なく決定したのだった。
この日から僕達4人の『LOUDNESS』の物語が始まった・・・・
物事が何も始まっていなかったので「脱退」と言う言葉は不適切かと思う。
ひろゆき君にはひろゆき君の,やりたいことがあったのだから仕方があるまい。
彼との交流は本当に短いものだった。
オーディションで始めて会った時、上京後のミーティングで数回、それがすべてだった。
彼の人柄などを良く知るほどには十分な付き合いが無かった。
どちらかと言えば、むしろ僕は彼のことをあまりよく知らないと言ったほうが良いかもしれない。
ただ印象としては、あの優しい笑顔のままの人だったと思う。
結局彼は後に、ポッキーこと井上俊次さんとNEVER LANDを結成して、僕は彼等のデビュー当時のライブを一度だけ観たことがあった。
とてもキャッチーで暖かな曲が多く、バンドメンバーの人柄がそのまま音に反映された優しいポップなバンドだった。
そのライブ以降、彼とは全く音信不通となり、LAZYの再結成の赤坂ブリッズ公演で客席からひろゆき君のことを観たのがネバーランドライブ以来であり、それが生きている彼を見る最後となった。
景山君や井上君はたまにLOUDNESSの楽屋へ陣中見舞いに来ることがあったけれど、ひろゆき君は殆ど来なかったと思う。
ひろゆき君に関して唯一の僕の思い出は、部屋の掃除が大の苦手なひろゆき君、僕が彼の部屋へ遊びに行くことになったので夜を徹して部屋の掃除をしてくれたこと・・。
「掃除大変やってんで~~~!」と言って僕を部屋に招き入れてくれた。
とても綺麗に掃除されていたので「そうなん?目茶綺麗な部屋やん!」と僕が言ったら、隣の部屋を見せてくれて「これがいつもの状態やねん!」と言って,泥棒が入った後のように見事に散らかった部屋を見せてくれて二人で大笑いしたことがあった。
2年前にそんな彼が急死したと言う知らせを受けた・・・。
ご冥福を祈る・・・・・。
タッカンが「幼なじみでベース弾ける奴がおんねん。」と言って,マー君を大阪から呼んだのはひろゆき君がこのプロジェクトに参加しないと決まって数日後だったと思う。
初めてマー君と合流した場所は失念したけれど、マー君はロックっぽいTシャツに黒と白の縦縞のタイトジーンズにカーリーヘアーと言う出で立ちだったのは良く覚えている。
とても細身でお人形さんのような愛くるしい青年だった。

右手にはベースのハードケースで中には白のリッケンバッカーが入っていた。
「まいど!」恥ずかしげに挨拶してくれた時、あのオーディションの夜焼き鳥屋「大吉」にいた人だとすぐに思い出した。
マー君は「アースシェイカー結構見に行ってたで~~」と言って笑っていた。
RUSHが大好きだと言うマー君とはすぐに意気投合した。
それまで僕は大阪から上京したてで、東京のことやプロの音楽の世界のことも、右左何も分からなかっただけに同志が出来たような気がして嬉しかったし、心強くなった。
僕達はすぐにスタジオに入ってセッションを始めた。
マー君のベースはひろゆき君とは明らかに違うタイプでマー君のそれは攻撃的でリッケンバッカー特有のゴリゴリしたサウンドが新鮮だった。
こうして高崎晃プロジェクトの名の下、4人のメンバーが揃うことになった・・・。
僕達はスタジオでセッションを繰り返しながらタッカンのリフを中心に曲作りも始めた。
毎日最低6時間ほどは演奏に没頭した。
僕たち4人は一つのリフから延々とインプロビゼーションで曲を膨らませて行った。
その間、殆ど会話らしい会話は無かった。
ただひたすらに演奏に没頭した。
セッション中、僕はアースシェイカーでやっていた時と同じように、皆の演奏を聴きながら思いつくまま出鱈目にただひたすらに叫びまくった。
そして、みんなの白熱するセッションのうねりから色んなイメージを受け取り、ヴォーカルメロディーをひらめきで作っていった。
あの時の4人のエネルギーは本当に凄まじかったと思う。
タッカンもひぐっつあんもマキシマムのパワーでロックしていた。
セッション中のタッカンのギターはまさに驚異的だった。
タッカンの指から溢れ出てくるギターリフも即興のギターソロも何もかもが神憑っていた。
そのギターに触発されたひぐっつあんもあり得ないような爆発したドラミングだった。
ひぐっつあんは脅威のスピードと怒涛のラウドドラム炸裂で益々スタジオ内を盛り上げ、4人の感情の導火線に火をつけた。
僕達はヘロヘロになるまでセッションを続けた・・・。
そしてその演奏をタッカンのカセットテープレコーダーで毎回録音した。
録音と言ってもMTRのようなものではなく、ラジカセの小さな奴をスタジオの中央に置いてせーので演奏したものを一発録音したものだった。

そんなセッションを繰り返していたある日、僕達はタッカンの家にいた。
セッションテープを聴きながら「おぉ!!このフレーズ凄いなぁ!!」とか「このメロディーのシャウト格好エエな」とか「このギターソロは病気やな・・」とか、僕の出鱈目な英語歌(ハナモゲラ唱法)に皆で大笑いしたりしている時、ひぐっつあんが(だと思う)「これで俺達バンドとしてせーへんか?」と提案した。
当初はあくまで高崎晃ソロプロジェクトとして始まったプロジェクトだったけれど、セッションを通じて自分達の作り出す音楽やロックに確固たる自信と確信を得たのだ。
「そうやな~~そうしょうか!」タッカンも同意した。
僕もマー君も異論があるわけが無い。
「バンド名どないする?」とひぐっつあんが言った。
この時にバンド名が決まったのだけど、バンド名の決定の経緯には色んな諸説があり今や僕も「これが真相だ!」と言う自信が無い・・・。
ただ、僕の記憶では、誰かがステレオのアンプに書いてあるLOUDNESSと言う文字を指差した。

「このLOUDNESSって格好ええんちゃうか?」と言った場面を記憶しているのだが・・。
それを聞いたタッカンが辞書で「LOUDNESS」を調べて「意味は・・・大声、騒々しさ、派手さ・・・おぉ!意味も格好ええぞ!!これにしようや!」となったと思う。
意外とバンド名は難なく決定したのだった。
この日から僕達4人の『LOUDNESS』の物語が始まった・・・・
by loudness_ex
| 2008-06-16 20:57
