別れ
LOUDNESS豆知識
僕の「有名」と書かれた所謂日章旗(厳密には旭日旗)のTシャツ。
あれを買ったのは始めてLOUDNESSのライブでハリウッドへ行った時、ハリウッドの土産物屋で購入。
日本であんなTシャツを見たことなかったのでこれは面白いと思った。
他にも色々日本をモチーフにしたTシャツはあったけれど旭日旗のTシャツほどのインパクトは無かったなぁ。
デフレパードがユニオンジャックのTシャツを着ていたのを意識して、旭日旗のTシャツをライブで着たらその写真がイギリスのロック雑誌「ケラング」で掲載され一躍世界中で文字通り「有名」になった。
あの土産物屋には感謝状を送りたい!
*******************************
マーシーのヴォーカルとの出会いは僕に多くのことを気づかせてくれた。
日本語のハードロックバンドの可能性、日本語のロックヴォーカルの奥の深さ・・・
僕はマーシーに完全に打ちのめされた。
自信喪失と言う類のものでは無かったけれど、マーシーのヴォーカルはそれまで僕がアースシェイカーでやってきたことに対して多くの問題点を浮き彫りにしてくれたように思う。
マンティスを見てからと言うもの、僕がアースシェイカーでやっているヴォーカルパフォーマンスやベースの力量では到底このバンドに太刀打ち出来るとは思えなかった。
僕は自分がアースシェイカーでやっていることすべてが中途半端だと悟った。
そしてなんと言っても、マーシーやシャラが持つあのギラギラとしたハードロックのプロミュージシャンへの情熱が僕には全く足りないことも悟った。
(僕はこれで良いのか?)と言う疑問が大きくのしかかってきたのだ。
兎にも角にも、マーシーのヴォーカルを体験することでヴォーカルと言うパートを本気で意識するようになったのだ。
話が前後して恐縮なのだが、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”加入の話題を先にやってしまったのでちょっとこの辺の事情がややこしくなってしまったけれど、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”への加入はマーシーのヴォーカルとの出会いが無ければ無かったかもしれない。
時系列に要約すると、
マーシーのヴォーカルに出会う→ヴォーカルを真剣に意識し始める→ヴォーカルが上手くなりたいと思う→R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”から声がかかる→ヴォーカルの勉強に最適と思う→R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”加入決意。
マーシーとの出会いとSOUL-DOO-OUT加入がほぼ同時期であり、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”が本格的にヴォーカリスト二井原を誕生させた。
そして、後述することになるけれど、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”が無ければLOUDNESSへの加入もありえなかっただろう。
そうなれば今の日本のロック界の歴史も全く違ったものになっていたかもしれない・・・・。
この時期は僕にとってとても運命的な時期だった。
とは言うものの、この時期「プロのシンガーになる」と言うような野望は相変わらず皆無だったけれど。
僕はアースシェイカーでやっていること、そしてこれからやって行くであろうことに対して、心のどこかで限界を感じてしまった。
自分の中途半端な実力を思い知ったからである。
そして真剣にR&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”でソウルミュージックなるものを歌うにつれて、ソウルミュージックへの傾倒と共にハードロックと言う音楽への情熱が冷めていったのも事実であった。
ただ、ソウルミュージックとハードロック、自分にとって歌うに相応しい音楽はどちらだったのかは分からなかった。
ヴォーカリストとしてのマインドを培ってくれたのはソウルミュージックであったとは思う。
そして、今まで音源としてリリースしてきた色んなヴォーカルアイデアの多くもソウルミュージックのヴォーカルフレーズからインスパイヤされたものも決して少なくはない。
そういう意味では僕にとってソウルミュージックを経験したことは重要な意味を持つ。
京都での生活が始まり、京都でのソウルバンド活動が始まり、結局僕はシャラと疎遠になってしまった。
当時は携帯電話というものが存在せず、下宿していたせいもあってシャラとの電話連絡も滞りがちになった。
京都の下宿の方にシャラからの電話が幾度とあり、同じ下宿生がメッセージを僕に告げてくれた。
「石原さんと言うひとが至急連絡して欲しい」
僕は京都駅の公衆電話からシャラに電話した。
「お前連絡ぐらいして来いや!」シャラは完全に苛立っていた。
「バハマのスケジュール入れるで、リハーサルもやんで、ニイチャンいつリハできんねん?」
僕は返答に困った。
「シャラ・・・俺なハードロック辞めたいねん・・・」
「お前何考えてんねん、勝手なこと言うなや!」
「すまん・・・」
「ほんならお前、アースシェイカーのベースとヴォーカルどーすんねん?」
「・・・・」
「目茶勝手やな・・・・もうエエワ・・」
シャラは電話を切った・・・。
あっけない最後だった・・・。
シャラと電話で話した時、僕は事前にアースシェイカーを辞めようと心に決めていた訳でもなかった。
何故あの時「ハードロック辞めたいねん・・・」と口に出したのかは分からない。
そういう運命だったと言えば簡単だけれど・・・。
僕はこの時大事な友人を失ってしまったと思った。
シャラには本当に申し訳ないことをしたと後悔した。
そしてハードロックに別れを告げるべく僕は髪を短く切った・・・。
僕の「有名」と書かれた所謂日章旗(厳密には旭日旗)のTシャツ。
あれを買ったのは始めてLOUDNESSのライブでハリウッドへ行った時、ハリウッドの土産物屋で購入。
日本であんなTシャツを見たことなかったのでこれは面白いと思った。
他にも色々日本をモチーフにしたTシャツはあったけれど旭日旗のTシャツほどのインパクトは無かったなぁ。
デフレパードがユニオンジャックのTシャツを着ていたのを意識して、旭日旗のTシャツをライブで着たらその写真がイギリスのロック雑誌「ケラング」で掲載され一躍世界中で文字通り「有名」になった。
あの土産物屋には感謝状を送りたい!
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マーシーのヴォーカルとの出会いは僕に多くのことを気づかせてくれた。
日本語のハードロックバンドの可能性、日本語のロックヴォーカルの奥の深さ・・・
僕はマーシーに完全に打ちのめされた。
自信喪失と言う類のものでは無かったけれど、マーシーのヴォーカルはそれまで僕がアースシェイカーでやってきたことに対して多くの問題点を浮き彫りにしてくれたように思う。
マンティスを見てからと言うもの、僕がアースシェイカーでやっているヴォーカルパフォーマンスやベースの力量では到底このバンドに太刀打ち出来るとは思えなかった。
僕は自分がアースシェイカーでやっていることすべてが中途半端だと悟った。
そしてなんと言っても、マーシーやシャラが持つあのギラギラとしたハードロックのプロミュージシャンへの情熱が僕には全く足りないことも悟った。
(僕はこれで良いのか?)と言う疑問が大きくのしかかってきたのだ。
兎にも角にも、マーシーのヴォーカルを体験することでヴォーカルと言うパートを本気で意識するようになったのだ。
話が前後して恐縮なのだが、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”加入の話題を先にやってしまったのでちょっとこの辺の事情がややこしくなってしまったけれど、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”への加入はマーシーのヴォーカルとの出会いが無ければ無かったかもしれない。
時系列に要約すると、
マーシーのヴォーカルに出会う→ヴォーカルを真剣に意識し始める→ヴォーカルが上手くなりたいと思う→R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”から声がかかる→ヴォーカルの勉強に最適と思う→R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”加入決意。
マーシーとの出会いとSOUL-DOO-OUT加入がほぼ同時期であり、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”が本格的にヴォーカリスト二井原を誕生させた。
そして、後述することになるけれど、R&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”が無ければLOUDNESSへの加入もありえなかっただろう。
そうなれば今の日本のロック界の歴史も全く違ったものになっていたかもしれない・・・・。
この時期は僕にとってとても運命的な時期だった。
とは言うものの、この時期「プロのシンガーになる」と言うような野望は相変わらず皆無だったけれど。
僕はアースシェイカーでやっていること、そしてこれからやって行くであろうことに対して、心のどこかで限界を感じてしまった。
自分の中途半端な実力を思い知ったからである。
そして真剣にR&Bバンド”SOUL-DOO-OUT”でソウルミュージックなるものを歌うにつれて、ソウルミュージックへの傾倒と共にハードロックと言う音楽への情熱が冷めていったのも事実であった。
ただ、ソウルミュージックとハードロック、自分にとって歌うに相応しい音楽はどちらだったのかは分からなかった。
ヴォーカリストとしてのマインドを培ってくれたのはソウルミュージックであったとは思う。
そして、今まで音源としてリリースしてきた色んなヴォーカルアイデアの多くもソウルミュージックのヴォーカルフレーズからインスパイヤされたものも決して少なくはない。
そういう意味では僕にとってソウルミュージックを経験したことは重要な意味を持つ。
京都での生活が始まり、京都でのソウルバンド活動が始まり、結局僕はシャラと疎遠になってしまった。
当時は携帯電話というものが存在せず、下宿していたせいもあってシャラとの電話連絡も滞りがちになった。
京都の下宿の方にシャラからの電話が幾度とあり、同じ下宿生がメッセージを僕に告げてくれた。
「石原さんと言うひとが至急連絡して欲しい」
僕は京都駅の公衆電話からシャラに電話した。
「お前連絡ぐらいして来いや!」シャラは完全に苛立っていた。
「バハマのスケジュール入れるで、リハーサルもやんで、ニイチャンいつリハできんねん?」
僕は返答に困った。
「シャラ・・・俺なハードロック辞めたいねん・・・」
「お前何考えてんねん、勝手なこと言うなや!」
「すまん・・・」
「ほんならお前、アースシェイカーのベースとヴォーカルどーすんねん?」
「・・・・」
「目茶勝手やな・・・・もうエエワ・・」
シャラは電話を切った・・・。
あっけない最後だった・・・。
シャラと電話で話した時、僕は事前にアースシェイカーを辞めようと心に決めていた訳でもなかった。
何故あの時「ハードロック辞めたいねん・・・」と口に出したのかは分からない。
そういう運命だったと言えば簡単だけれど・・・。
僕はこの時大事な友人を失ってしまったと思った。
シャラには本当に申し訳ないことをしたと後悔した。
そしてハードロックに別れを告げるべく僕は髪を短く切った・・・。
by loudness_ex
| 2008-05-22 04:21