R&Bへの傾倒、“Soul-Doo-Out”
LOUDNESS豆日記&情報
今日タッカンと大阪ライブ以来になるけど、電話で話した。
近いうちに次のアルバムに向けて曲作り始めようと話をした。
ひぐっつあんの体力やペースを考えて最高のアルバムを作ろうと言うタッカンの前向きな言葉が嬉しかった。
ひぐっつあんのことを考えると心に大きな穴がぽっかりと開いたような気分だ。
1回目の手術が生死を分ける大変な手術だったけれど、それをもう数回やるそうだ・・・。
奇跡的回復を信じている。
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結局、京都のClassical R&B soul band “Soul-Doo-Out”に加入することになり、本格的にヴォーカリストとして歌うようになった。
James Brown, Otis Redding, Aretha Franklin, Sam and Dave, Wilson Picket, Percy Sledge, Marvin Gay, Tower of power, Otis Clay, Ray Charles,…etcこの頃,真剣にクラシックRhythm and Bluesのスタンダードナンバーをひとしきり歌い,歌の勉強をした。
高校時代からポーロジャース、スティーブマリオット、ロッドスチュアート、のようなソウルフルなロックシンガーが大好きだったので彼等のルーツであるシンガーの曲を歌うのは大変勉強になったし楽しかった。
“Soul-Doo-Out”には男二人、女性二人、4人のシンガーがいた。
偶然にも4人とも同じ年だった。
僕ともう一人の男性シンガーは京都出身で「大ノ伸(だいのしん)」と言う男だった。
顔にひげを蓄え、体重は優に120キロはありそうな巨漢シンガーだった。
物凄いパワフルなディープソウルのシャウタ―で、彼のディープなチェストヴォイスは日本人離れしていた。
オーティスレディングの名曲”Try a little tenderness”が彼の十八番だった。
ちなみに「大ノ伸(だいのしん)」は高校時代茶々丸とバンドをやっていたらしい、その後京都出身の男前Bassist和佐田ともバンドをやっていたそうだ、世の中狭い。
女性ヴォーカリストの「洋子さん」はアレサフランクリンが大得意だった。
ロックヴォーカル一辺倒でソウルヴォーカルが全く未経験だったので、「洋子さん」は僕にはとても厳しい歌の先生だった、実際色々勉強させてもらった。
もう一人の女性シンガーの「せっちゃん」はマジで嫁にしたいぐらいの優しくて聡明で素敵な女性だった。
そんな彼女がひとたび歌うと猛烈&強烈なハスキーシャウターでそのパワーは凄まじかった。
ちなみに「せっちゃん」は同志社大学で伝説の女性ロックバンド「烏丸車庫」のリードシンガーでもあった。
この女性二人には色んな意味で圧倒されっぱなしだったなぁ・・・。(笑)
バックミュージシャンもほぼ全員同じ年で、同志社、京都大学、京都産業大学の音楽サークルの人達だった。
練習場所は百万遍の京大西部講堂にあった京大の軽音の部室でやった。
ヴォーカリストの4人が全員シャウターだったので、おとなしく綺麗にハーモニーアンサンブルを聞かせるというより、全員がソロシャウトを競い合うような凄まじいヴォーカルアンサンブルだった。
基本的にアップナンバーは1曲を4人でシャウトソロを交代していくのだけれど、バラードは各自のソロコーナーで一人でフルコーラスを歌った。
僕はパーシースレッジの「男が女を愛する時」を歌うことになった。
僕が加入する前にいたシンガーがこの曲を歌っていたらしく、そのあとを継いだ形になった。
こう言う経緯でこの曲と出会ったわけだけど、この曲が将来僕の音楽人生にとって大変重要なカギとなった。
この頃から、生活拠点も大阪からいつしか京都に「平井荘」と言う6畳一間共同トイレの絵に描いたような学生木造アパートを借りて下宿するようになった。
そしてこの頃には大学に素敵な美人ガールフレンドも出来た。
彼女は片時も僕から離れること無くいつも僕の音楽を応援してくれていた。
京都の音楽活動と大阪のアースシェイカーの活動、二つのバンドでとても忙しくなった。
仏大の軽音にはほとんど行けなくなった。
茶々丸とやっていた「青春会」にはいつしか新たなベーシストが入っていた・・・・。
最早「軽音」に僕のいる場所が無くなってしまった。
そして大学にも殆ど行かなくなった。
ある日、学校から実家に成績通知が送られて、単位取得「ゼロ」に姉が激怒した。
「あんた、学費安ないねんで!何考えてんの?アホちゃうか!学校行けへんねやったら辞めて働きぃな!」
EARTH SHAKERとSoul-Doo-Outとアルバイトで学校どころではなかったのだ。
“Soul-Doo-Out”は京都のライブハウス「磔磔」や「サーカス&サーカス」、大阪の「バーボンハウス」が主な活動場所だった、そして僕が加入した年の秋には京都大学西部講堂で“Soul-Doo-Out”の初のホール形式でのワンマンライブをやった。
ソウルミュージックにどっぷり浸かっていた大学2年~大学3年の秋頃の話である。
今日タッカンと大阪ライブ以来になるけど、電話で話した。
近いうちに次のアルバムに向けて曲作り始めようと話をした。
ひぐっつあんの体力やペースを考えて最高のアルバムを作ろうと言うタッカンの前向きな言葉が嬉しかった。
ひぐっつあんのことを考えると心に大きな穴がぽっかりと開いたような気分だ。
1回目の手術が生死を分ける大変な手術だったけれど、それをもう数回やるそうだ・・・。
奇跡的回復を信じている。
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結局、京都のClassical R&B soul band “Soul-Doo-Out”に加入することになり、本格的にヴォーカリストとして歌うようになった。
James Brown, Otis Redding, Aretha Franklin, Sam and Dave, Wilson Picket, Percy Sledge, Marvin Gay, Tower of power, Otis Clay, Ray Charles,…etcこの頃,真剣にクラシックRhythm and Bluesのスタンダードナンバーをひとしきり歌い,歌の勉強をした。
高校時代からポーロジャース、スティーブマリオット、ロッドスチュアート、のようなソウルフルなロックシンガーが大好きだったので彼等のルーツであるシンガーの曲を歌うのは大変勉強になったし楽しかった。
“Soul-Doo-Out”には男二人、女性二人、4人のシンガーがいた。
偶然にも4人とも同じ年だった。
僕ともう一人の男性シンガーは京都出身で「大ノ伸(だいのしん)」と言う男だった。
顔にひげを蓄え、体重は優に120キロはありそうな巨漢シンガーだった。
物凄いパワフルなディープソウルのシャウタ―で、彼のディープなチェストヴォイスは日本人離れしていた。
オーティスレディングの名曲”Try a little tenderness”が彼の十八番だった。
ちなみに「大ノ伸(だいのしん)」は高校時代茶々丸とバンドをやっていたらしい、その後京都出身の男前Bassist和佐田ともバンドをやっていたそうだ、世の中狭い。
女性ヴォーカリストの「洋子さん」はアレサフランクリンが大得意だった。
ロックヴォーカル一辺倒でソウルヴォーカルが全く未経験だったので、「洋子さん」は僕にはとても厳しい歌の先生だった、実際色々勉強させてもらった。
もう一人の女性シンガーの「せっちゃん」はマジで嫁にしたいぐらいの優しくて聡明で素敵な女性だった。
そんな彼女がひとたび歌うと猛烈&強烈なハスキーシャウターでそのパワーは凄まじかった。
ちなみに「せっちゃん」は同志社大学で伝説の女性ロックバンド「烏丸車庫」のリードシンガーでもあった。
この女性二人には色んな意味で圧倒されっぱなしだったなぁ・・・。(笑)
バックミュージシャンもほぼ全員同じ年で、同志社、京都大学、京都産業大学の音楽サークルの人達だった。
練習場所は百万遍の京大西部講堂にあった京大の軽音の部室でやった。
ヴォーカリストの4人が全員シャウターだったので、おとなしく綺麗にハーモニーアンサンブルを聞かせるというより、全員がソロシャウトを競い合うような凄まじいヴォーカルアンサンブルだった。
基本的にアップナンバーは1曲を4人でシャウトソロを交代していくのだけれど、バラードは各自のソロコーナーで一人でフルコーラスを歌った。
僕はパーシースレッジの「男が女を愛する時」を歌うことになった。
僕が加入する前にいたシンガーがこの曲を歌っていたらしく、そのあとを継いだ形になった。
こう言う経緯でこの曲と出会ったわけだけど、この曲が将来僕の音楽人生にとって大変重要なカギとなった。
この頃から、生活拠点も大阪からいつしか京都に「平井荘」と言う6畳一間共同トイレの絵に描いたような学生木造アパートを借りて下宿するようになった。
そしてこの頃には大学に素敵な美人ガールフレンドも出来た。
彼女は片時も僕から離れること無くいつも僕の音楽を応援してくれていた。
京都の音楽活動と大阪のアースシェイカーの活動、二つのバンドでとても忙しくなった。
仏大の軽音にはほとんど行けなくなった。
茶々丸とやっていた「青春会」にはいつしか新たなベーシストが入っていた・・・・。
最早「軽音」に僕のいる場所が無くなってしまった。
そして大学にも殆ど行かなくなった。
ある日、学校から実家に成績通知が送られて、単位取得「ゼロ」に姉が激怒した。
「あんた、学費安ないねんで!何考えてんの?アホちゃうか!学校行けへんねやったら辞めて働きぃな!」
EARTH SHAKERとSoul-Doo-Outとアルバイトで学校どころではなかったのだ。
“Soul-Doo-Out”は京都のライブハウス「磔磔」や「サーカス&サーカス」、大阪の「バーボンハウス」が主な活動場所だった、そして僕が加入した年の秋には京都大学西部講堂で“Soul-Doo-Out”の初のホール形式でのワンマンライブをやった。
ソウルミュージックにどっぷり浸かっていた大学2年~大学3年の秋頃の話である。
by loudness_ex
| 2008-04-30 18:22