よくLOUDNESSの曲は誰が作るのですかと聞かれる。
ん~これは返答に困る質問なのだ。
LOUDNESSはアルバム作りを始める前の段階では曲らしい形にはなっていないからだ。
アイデアとしてあるのはタッカンのギターのテーマリフ4小節ほどで、それを元に各パートが色々アイデアを出しあって曲を完成させる場合が多い。
大まかな楽器アレンジが先に出来あがってからそれを元に歌メロを考える。
歌メロは殆ど僕に任せてくれるけれど、タッカンもこんなのどう?と言ってメロディーを指定してくれるときもある。
結成以来バンドで一緒に楽曲を作る方式は変わっていない。
特にハードな曲はスタジオででかい音でみんなで一緒に演奏しながら作る方が早いし、良いものが出来ることが多い。
従って、「これは誰の曲やねん?」と聞かれても、「みんなの曲や」としか答えようが無いのですな。
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僕は大学生になった。
毎朝、詰襟の学生服を着ていたけれど、もうその必要は無くなった。
黒でペッちゃんこだった学生カバンももう必要なくなった。
学校でシャラ達に会えないのが寂しかった。
いつもシャラとかと一緒だったし、離れ離れになる現実が受け入れられなかった。
今から考えるとまさに「天野君、天野君」と言っているキャィーンのウドちゃん状態だったかもしれない・・・。
大学生活ってどんな感じなんやろう・・・
大学に対してわくわくする希望よりも何となく感じる虚無感。
僕は大学初日、取りあえず頑張って早起きをして登校した。
自宅そばの阪和線の「あびこ町」の駅から「天王寺」まで行き、環状線に乗り換えて「大阪駅」、梅田から阪急電車特急に乗って京都4条で下車、そこから市バスで千本北大路まで行って、そこから徒歩10分ほど行った左側に仏教大学はあった。
家から大学まで軽く2時間以上はかかった・・・。
大学初日、大学の校門でまず目に飛び込んだのが拡声器を持った学生運動家のアジ演説だった。
その当時京都ではまだ全学連や民青連など学生運動が盛んだった。
(↓この写真みたいな感じ)
何やら叫んでいるが全く耳に入らない雑音だった。
その次に目に入ったのがタスキを掛けてビラを撒きながら新入生の勧誘を躍起になってやっている学生達だった。各サークルや部活動の勧誘が物凄い勢いだった。
校門から数メートルの間に4つほどの勧誘攻めにあった。
この勧誘が始めは珍しかったけれどすぐに鬱陶しくなった。
当時この仏教大学は教育学科と社会福祉学科が凄く人気があって、その学生の殆どが女性だった。
文学部はとにかく女性が多かった。
女性8対男性2ぐらいの割合のような印象があった。
従って大学キャンパスは女子大生だらけと言う感じがした。
高校が男子校だっただけにこのギャップは激しかった。
女子大生を見ているだけで気がおかしくなりそうだった。
もうねぇ・・・まさに花園・・・なんか知らんが、ムンムンだったよぉ~♪
僕は勧誘から逃げるように社会学部社会学科のオリエンテーションのある教室へ行った。
そこで愕然とした、教室内は男子学生ばかり200人ほどいて女子学生が10人ほどだった。
社会学部に限っては女子と男子の比率が逆転していたのである。
(なんじゃいこりゃ、男子校と変わらんやんけ!!)少し落胆した。
オリエンテーションは退屈だった、適当に切り上げて「喫茶部」という所へ行ってみた。
その中は学生で溢れかえっていた、そしてタバコの煙がすごかった。
(そうかぁ~大学生って学校で平気でタバコ吸えるんやなぁ・・・大人やぁ・・)
いきなり大人の世界に来た実感がした。
あまりに煙いので外に出ていると高校の先輩が声を掛けてくれた。
「おぉ二井原やんけ、新入生の部活の勧誘に気をつけや」と先輩はアドヴァイスしてくれた。
毎年、拉致まがいの部活の勧誘が原因で学校を辞める人もかなりいると教えてくれた。
「特になぁ運動部とか応援団には気をつけや、一旦応援団の部室へ連れて行かれたらもう抜けられへんで、入団するまで絶対開放してくれへんで、ほんでな、一旦入団したら退団するのはかなり大変やで」
先輩のアドヴァイスでちょっとビビッた。
その日は取りあえず勧誘が酷いので家に帰ることにした。
学校初日は友達らしい友達も出来なかった。
次の日も、次の日も大学では新入生のオリエンテーションが続き、そして新入生歓迎イヴェントがあったりした。
仕方無しに学校内をぶらついていると腕をぎゅっと握られた、振り返るとそこにたっていたのは応援団の腕章をした怖そうな人だった。
(わぁ!!あの噂に聞いた怖い応援団や・・・どないしょ・・・)かなりビビッた。
「君、新入生?ちょっと応援団の部室まで来てくれんか?応援団に入らへんか?」
「いや、あのぉ・・・いいです」
「話ぐらいエエやろ?ちょっとだけやから・・・話きいてーな」応援団の目が怖かった、かつ上げされてる時と同じぐらい怖かった。
僕は心の中であの先輩の言葉を思い出した。
(一旦部室まで行ったら終わりや・・・どないしょ)
応援団の人の僕の腕を引っ張る力が強くなって無理に部室へ連れて行こうとした。
僕は必死で抵抗して「いや、あの、その、応援団には・・・あの・・入りたくない・・」と殆ど聞こえないような声で言った。
気が付いたら応援団のごついのが5~6人が僕を囲んでいた・・
(アカン・・・もう終わりや・・・俺はこれから応援団員として4年間過ごすんか?アースシェイカーはどうすんねん・・・)
もう泣きそうになり半分断念しかけた時、例の先輩が通りがかった。
「おぉ二井原やんけ、なにしてんねん?」先輩が声を掛けてくれた。
「こいつ俺の知り合いやから離したってくれ」と先輩は応援団の一番ごつい人に交渉してくれた。
「なんやお前の知り合いか」
応援団の人と先輩は友達だったらしく、すぐに話はついて僕は解放された。
その日以来応援団の勧誘は無くなったけれど、空手部、柔道部、剣道部など怖そうな部活の勧誘がことごとく迫ってきた。
僕は先輩に「クラブの勧誘が怖いんやけど」と相談に行った。
「取り合えずどっかのクラブへ入ったらどうや?そうしたら勧誘来ても問題ないで。」と先輩は助言くれた。
大学で部活に入る気はなかったし、僕は何よりアースシェイカーをやる予定があった。
しかし、当面この勧誘地獄から開放されたかった。
僕は意を決した(どっかのクラブへ入ろう)
そして僕はどう言う訳か「落研」」を探した。
そうだ「落語」だあの「落語研究部」である。
どうして「落語」だったのか・・・未だ理由は分からない。
「落語研究部」の教室を探したけれど中々見つからなかった。
そして僕は気が付いたら「軽音楽部」の前に立っていた。
中からあまり上手くないロックの演奏が聞こえた。
中を覗くとホノボノとして和気あいあいで和やかな雰囲気だった。
(軽音かぁ・・この手があったなぁ・・・大学生バンドも悪くないかもなぁ)
僕は色々考えた挙句「落語」をやめて「軽音」に入ることに決めた・・・
まさに危機一髪、人生の大きな岐路だった。
もしあの時、「落語研究部」を先に見つけていれば、僕は今頃「落語家」だったかもしれない・・・。(笑)