LOUDNESS豆日記or豆情報
LOUDNESS日記と言っても日記にするような活動が今現在そんなにないので、豆情報も追加しました。
最近テレビで黒人演歌歌手のジェロさんの一日追っかけ特集をチラッと観た。
いや~今話題の人だけにキャンペーンが凄かった。
朝からインタビューやらラジオやテレビ出演やらでおおわらわですなぁ。
そう言えばLOUDNESSも80年代は彼のような感じでアルバムプロモーションを全国展開してたな。
だいたい各地方にレコード会社の営業支社みたいなのがあって、そこの宣伝の人がキャンペーンスケジュールをブッキングするんですなぁ。
例えば、朝に札幌に到着したとする、まずはレコード会社の営業所へ行って偉いさんやスタッフへ挨拶→数社の新聞社インタビュー→ミニコミ誌インタビュー→ラジオ出演→レコード屋さん巡り→有線放送へ挨拶→テレビ出演→サイン会などのイヴェント出演→再びラジオ出演→夕食会があって→酔いつぶれて沈没・・・・
ほんま、早朝から夜中までよく働いたなぁ。
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高校2年ぐらいからライブを見に行くようになった。
当時の関西にはまだそれほど目だったハードロックバンドは無く,主に関西ブルース&ソウルバンドが主流だった。
アマチュアバンドのコンテストもあって、アマチュアコンテストの横綱はYAMAHA主催の88ロックデーだった。
大阪の万博跡地でやっていた88ロックデーは僕らの憧れだった。
88ロックデーであの伝説の沖縄ハードロックバンド「紫」を観たし、上田正樹&サウスツーサウス、優歌団を観て夢中になった。
特に僕は関西ブルースバンドにのめり込んで、上田正樹&サウスツーサウスやソーバッドレビュー、優歌団の追っかけをするほどになった。
僕は関西ブルース面々の影響が大きいと思う。
僕のステージングやMCの間といったものはかなり彼等の影響を受けている。
優歌団のシンガー木村さんの物まねが得意だったし。
当時、僕はハードロックよりどちらかと言うと関西ブルースバンドのようなことの方が好きだったかもしれない。
シャラとバンドを組んだときも優歌団みたいな曲をやろうと提案したら「死んでも嫌や」とケンモホロロに反対された。
キッスやエアロスミスが初来日したのもこの頃で僕とシャラは一緒にライブへ行った。
3階の後ろの方の席で米粒にしかバンドは見えなかったけれど、僕達は興奮したし、これが本物のコンサートやと思った。
特にKISSのロックショーはエンターテイメントの真髄、頂点だと思った。
ちなみにその時、前座でバウワウが出演していて、その完璧なパフォーマンスに度肝を抜いた。
日本人もなかなかやるなと思った。
所謂ロックの外タレの来日が盛んになってきたけれど、僕達は高校生でお金が無かったので沢山のライブには行けなかった。
そんな時シャラが驚くべき方法で外タレのライブを見る方法を見つけてきた。
「ニーちゃん、物凄いええ方法見つけたで!!ライブただで見放題やで!!!」
「どーすんねん?」
「ライブの警備員のバイトあるらしいで」
確かにこれは名案であった、ただで観放題と言うか聴き放題だった。
そのバイトはライブ当日の早い目の夕方に会場に集合して、外タレ招聘会社U社の人から警備に関しての注意をうけたりした。
コンサート前の会場ではサウンドチェックをやっていてその音に釘付けになった。
ある日、レインボーのライブでの警備員バイトの日、ライブ終了後に数人居残りを命じられた。
メンバーをステージから帰りの車まで警備する為である。
会場で待つように命じられていたので会場のいすに座って待っていると、なんとリッチーをはじめレインボーメンバーが全員ステージに登場してきた。
そして、なんと、次の日の変更曲のリハーサルを始めたではないか!!!!
僕達は腰が抜けた。
レインボーのリハーサルは2曲ほどで、PAから音は出ていなかったけれど大満足だった。
そのレインボーライブの日、僕達が会場の入り口ロビーで説明を受けているとブラブラっとロビーに出てきて「やぁー」と言って気さくに握手してくれた人がいた。
僕は興奮しながらも「I'm BIG FAN!!!!」とその人につたない英語で言った。
そうしたらなんとその人、僕をガシッとハグしてくれて頭をぐしゃぐしゃとして何やら英語で言ってくれた、僕は夢心地だった。
グイッとハグされたとき大柄ではなったけれど鋼のような筋肉の塊が印象深かった。
僕をハグしてくれたやさしげな笑顔で気さくなそのお人こそ、今は亡きコージーパウエルだった。