一人ぼっちのアメリカ
今となっては理由は分からないけれど、結局マックスノーマンがプロデュースすることになった。
マックスノーマン・・・オジーの人か。
当時、僕はオジーのファンでも無く、LOUDNESSに入ってからタッカンに「これエエで」と言ってオジーソロのアルバムを聴かされたほどだ。
ブラックサバスにもあまり興味が無かったし・・・・。
ただ、オジーのアルバムのランディーローズは素晴らしいと思った。
無骨なロックギターと言うより、とても繊細で美しいメロディーを弾くギターリストだと思った。
ランディーローズのギターソロのフレーズを始めて聴いた時、(タッカンはこの人コピーしまくったんだろうな)と思った。
当時、タッカンも大好きだったようで、いつも車の中でオジーが流れていた。
マックスノーマン、どんなことになるのか不安であったけれど、何となく人選は間違っていないように思った。
さて、歌詞である。
とりあえず、英詞を書くことは出来ないけれど、せめて歌詞のコンセプトと言うか、ある程度の歌詞の内容は準備しておくべきだと思って、日本語で歌詞を考えてそれを当時5Xのギターだったジョージ吾妻さんに直訳てもらった。
1984年、7月
直訳の歌詞とデモテープを持って僕一人で先に渡米。
いよいよアメリカ進出の第一歩を踏み出す!
そのレコーディング前にまずはアメリカで英語の発音の勉強と言うことである。
先にも書いたかもしれないけれど、当時僕は英語が全く話せなかった。
勿論、片言でミッシェルと英語でコミュニケーションはしていたけれど、今から思えばッミッシェルが何とか理解してあげようと言う姿勢のお陰だった。
一人で渡米するのはすでに経験済みだったけれど・・・・。
今回の渡米は胸がはち切れそうな夢で一杯だった。
どう言う訳か、飛行機の中で東京へ出てくる時の京都のバスの停留所が頭をよぎって鼻がツンとした。
今はあの時のような寂しさは無いけれど、いったいどこまでこの旅は続くのだろうと思った。
高校でバンドを始めて、数年後にはアメリカデビューである。
こんな、映画みたいなことが実際あるのだなと他人事のように思った。
「与えられたチャンスを精一杯やるしかない。」
僕はそう自分に言い聞かせて奮い立たせた。
成田から9時間弱、LAXに着いた。
空港に出ると、「MINORU NIIHARA」と言うプラカードを持っているブロンドに青い目の白人男性を発見。
彼は僕を見つけて笑顔で手を振った!
“Hi! Are you NIIHARA? Nice to meet ya! I’m Erick! ”
迎えに来た彼が僕の英語の先生だった。
彼が何か話しかけるのだけど全部英語で辛かった。
空港を出るとでっかいリムジンが待っていて、運転手の人が車の横で立っていた。
(ギャ~~ロックスターや~~~♪)
リムジンカーと運転手に恐れ多くて恐縮した。
「ひゃ~!す、すみません~~!」と言いながらリムジンカーの扉を開けようとしたら、運転手の人が驚いた様子で飛んできて、”No! NO! NO!”と言いながら荷物を運び、扉を開けてくれた。
(そうか・・自分で扉開けなくて良いのね・・・リムジンだものね・・・・俺はVIPなのね・・・)
リムジン車内は豪華でとても居心地が良かったけれど、自分には不釣合いだと思った。
リムジンはLAXを出て405サンディエゴハイウエーを走った。
40分ほどでリムジンの車窓から、あの有名な”HOLLY WOOD”の看板が見えた。
道中エリックさんは色々と話しかけてくれたけれど、殆ど耳に入らなかった。
リムジンはビヴァリーヒルズを超えてノースハリウッドのアパートまで走った。
LA、ハリウッドはサンフランシスコのベイエリアとは違って、空気はスモッグっぽいけれど、とても陽気な雰囲気が僕には眩しすぎるように思った。
エリックが”I’ll be here at 10 AM tomorrow!.OK? Anything you need, tnen just call me!”と言って出て行った。
二井原実24歳、一人ぼっちのLA生活が始まった・・・。
マックスノーマン・・・オジーの人か。
当時、僕はオジーのファンでも無く、LOUDNESSに入ってからタッカンに「これエエで」と言ってオジーソロのアルバムを聴かされたほどだ。
ブラックサバスにもあまり興味が無かったし・・・・。
ただ、オジーのアルバムのランディーローズは素晴らしいと思った。
無骨なロックギターと言うより、とても繊細で美しいメロディーを弾くギターリストだと思った。
ランディーローズのギターソロのフレーズを始めて聴いた時、(タッカンはこの人コピーしまくったんだろうな)と思った。
当時、タッカンも大好きだったようで、いつも車の中でオジーが流れていた。
マックスノーマン、どんなことになるのか不安であったけれど、何となく人選は間違っていないように思った。
さて、歌詞である。
とりあえず、英詞を書くことは出来ないけれど、せめて歌詞のコンセプトと言うか、ある程度の歌詞の内容は準備しておくべきだと思って、日本語で歌詞を考えてそれを当時5Xのギターだったジョージ吾妻さんに直訳てもらった。
1984年、7月
直訳の歌詞とデモテープを持って僕一人で先に渡米。
いよいよアメリカ進出の第一歩を踏み出す!
そのレコーディング前にまずはアメリカで英語の発音の勉強と言うことである。
先にも書いたかもしれないけれど、当時僕は英語が全く話せなかった。
勿論、片言でミッシェルと英語でコミュニケーションはしていたけれど、今から思えばッミッシェルが何とか理解してあげようと言う姿勢のお陰だった。
一人で渡米するのはすでに経験済みだったけれど・・・・。
今回の渡米は胸がはち切れそうな夢で一杯だった。
どう言う訳か、飛行機の中で東京へ出てくる時の京都のバスの停留所が頭をよぎって鼻がツンとした。
今はあの時のような寂しさは無いけれど、いったいどこまでこの旅は続くのだろうと思った。
高校でバンドを始めて、数年後にはアメリカデビューである。
こんな、映画みたいなことが実際あるのだなと他人事のように思った。
「与えられたチャンスを精一杯やるしかない。」
僕はそう自分に言い聞かせて奮い立たせた。
成田から9時間弱、LAXに着いた。
空港に出ると、「MINORU NIIHARA」と言うプラカードを持っているブロンドに青い目の白人男性を発見。
彼は僕を見つけて笑顔で手を振った!
“Hi! Are you NIIHARA? Nice to meet ya! I’m Erick! ”
迎えに来た彼が僕の英語の先生だった。
彼が何か話しかけるのだけど全部英語で辛かった。
空港を出るとでっかいリムジンが待っていて、運転手の人が車の横で立っていた。
(ギャ~~ロックスターや~~~♪)
リムジンカーと運転手に恐れ多くて恐縮した。
「ひゃ~!す、すみません~~!」と言いながらリムジンカーの扉を開けようとしたら、運転手の人が驚いた様子で飛んできて、”No! NO! NO!”と言いながら荷物を運び、扉を開けてくれた。
(そうか・・自分で扉開けなくて良いのね・・・リムジンだものね・・・・俺はVIPなのね・・・)
リムジン車内は豪華でとても居心地が良かったけれど、自分には不釣合いだと思った。
リムジンはLAXを出て405サンディエゴハイウエーを走った。
40分ほどでリムジンの車窓から、あの有名な”HOLLY WOOD”の看板が見えた。
道中エリックさんは色々と話しかけてくれたけれど、殆ど耳に入らなかった。
リムジンはビヴァリーヒルズを超えてノースハリウッドのアパートまで走った。
LA、ハリウッドはサンフランシスコのベイエリアとは違って、空気はスモッグっぽいけれど、とても陽気な雰囲気が僕には眩しすぎるように思った。
エリックが”I’ll be here at 10 AM tomorrow!.OK? Anything you need, tnen just call me!”と言って出て行った。
二井原実24歳、一人ぼっちのLA生活が始まった・・・。
by loudness_ex
| 2009-10-30 12:35