絶望と救われる道
ご無沙汰してました!
皆さん元気でしたか?
僕はX.Y.Z.-Aのレコーディングの仕上げやライブやらで色々忙しくしておりました~(恐縮)
最近、押入れを整理していたら珍しいもの発見!!
↓これ

このジュラルミンケース・・・・。
80年代のアメリカツアー中に使っていたものよ!
ステッカーをよく見たら"Motley Crue world tour 85/86" Back stage passと言うのと"Lightning strikes world tour Back stage pass"とか張ってあって懐かしかった~~!!
↓ケースの中

ひゃ~~その当時聞いてたカセットテープが色々と!!!
そのカセットテープを良く見ると、LOUDNESSの色んな国のライブを自分でステージそでで録音したカセットテープ!!!!
それも結構な本数!!
ぎゃ~~物凄い貴重なカセットテープ!。
これは値段の付けられないライブテープだよ!
凄い!!貴重なライブテープがっ!!!
時間を見つけてCDRに焼いて保存しよっと!!!
きっと価値の高いものだよこれは!!
大事にしまっておいて良かった!!!
さて、やっと「歴史もの」です・・・。
待たせてゴメンちゃい!!!!!
*********************
1984年6月末
ミッシェルの日本滞在は3週間ほどだったけれど、あっと言う間だった。
ひょんなことからLOUDNESS全国ツアーに同行することになって、彼女にとって忘れられない日本旅行になったと思う。
そう言えば、LOUDNESS広島ライブの翌日、広島原爆資料館へ一緒に行った。
そこで原爆の壮絶な記録を目の当たりにしてミッシェルは絶句、瞬く間に目から涙が溢れ出たのを思い出す。
ミッシェルはしばらく話が出来ないほどにショックを受けた。
搾り出すような声で「なんて酷いことを・・・・」と言うのが精一杯だった。
僕は何て言って良いのか戸惑った。
しかしながらよくよく考えてみると、原爆を落とした国、落とされた国の男女がロックを通じて恋人同士になったのだ。
当時、戦後40年が経っていて、当然のことながら戦後生まれの男女には戦時中のことなど関係無いのかもしれないけれど、ミッシェルの涙を見ながら不思議な気持ちになったのを覚えている。
日本滞在最後の夜、新宿ロフトへ44マグナムを観に行った。
大阪出身の44マグナムは東京でいよいよ火がつき始めた頃でライブの勢いが凄まじかった。
日本のモトリークルーと呼ばれていたグラマラスな44マグナムにミッシェルは興味津々だった。
「彼等本当に日本人?みんな綺麗ね!!」
ミッシェルはポールやジミーを観て目が点になっていた(笑)
結局、ミッシェルは滞在中LOUDNESS、44マグナム、Make up, アースシェイカーを観たことになる。
「でも、LOUDNESSがやっぱりナンバーワンね!」
彼女はウインクをしながら僕の手を握った。
「当たり前やろ!」(笑)
日本滞在最後の夜だったけれど、僕は幸せだった。
翌朝、成田空港。
「叉会おうね!」
僕は笑顔でミッシェルを見送った。
ミッシェルは振り返らなかった・・・・。
成田でのお別れが本当のお別れになってしまった。
僕には別れる理由は見当たらなかったけれど、自然と僕達の熱くも淡い春は終わったのだ。
ミッシェル帰国後も、僕は相変わらず殺人的スケジュールに追われた。
1984年5月
LOUDNESSはついにアメリカアトランティックレコードと全世界リリースの契約を交わした。
文字通り、日本人いや、もしかしたらアジアのロックバンドとしては初のアメリカメジャーレーベルとの契約だったかもしれない。
少なくとも、僕にはアジアのロックバンドでアメリカメジャーレーベルと全世界契約したバンドは記憶に無かた。
念願叶っての全世界正式デビューだったけれど、僕にはあまり実感は無かった。
あまりにも「話」が未知で大き過ぎたのだ。
むしろ、日本のレコード会社、マスコミなどの業界関係者が熱かった。
そしてこの日以来、LOUDNESSには「日本初の世界進出したロックバンド」と言う肩書きがつくようになった。
「二井原アルファベッドABCを言ってみて」
当時のLOUDNESS事務所の社長が僕に聞いてきた。
「A/B/C/D/…..」
それを聞いた社長が頭を抱えた・・・。
「マジか?お前その発音・・・・困った・・・」
「えっ?」僕は困惑した。
当時の社長はアメリカでの仕事経験があって英語の発音はバリバリであった。
「はぁ~・・・二井原・・・困ったなぁ・・LOUDNESSがやっとアメリカレーベルと契約出来たけど・・お前まともにアルファベッドも発音できないんだなぁ~」
「えっ、ボ、ボクの発音そんなに酷いですか?」
「今の時点ならはっきり言って論外だよ、アルバムなんて作れないよ・・・」
「で、でもボク英語で歌うしかないですよね?」
「当たり前だろお前、今までのように無茶苦茶英語では通用しないよ・・」
「あ、はい・・・はぁ~・・・・」
「海外プロデューサーはどうするんだろなお前の英語を・・・」
僕は意気消沈した・・
怖くなった・・
完璧な英語で歌える自信などあるわけない。
英語が怖くなった。
英語が憎くなった。
(そんなん・・今から急に完璧な英語で歌うなんて・・・無理に決まってるやんけ!)
僕は泣き叫びたい気持ちだった。
(もしかしたら、このままクビになるかもしれんなぁ・・・。)
英語をしゃべる必要の無い楽器だけのメンバーが羨ましく思った。
LOUDNESSの世界契約成立で盛り上がる中、言葉に出来ない絶望感が襲ってきた。
(もう・・・俺はダメかもしれん・・・)
世界に本格的に出て行こうするLOUDNESSの置かれている立場、そのバンドのヴォーカリストとの実力のアンバランス。
僕はその致命的で絶望的な現実にぶち当たった。
(でも、僕はここから逃げるわけにはいかない。)
数ヵ月後にはアルバムが完成しているはずだけど、僕にはそれが想像できなかった。
そんな状況ではあったけれど、幸い「多忙」が僕を窮地から救ってくれたような気がする。
どんな状況でも必ず「救いの道」は用意されていた。
「神様は乗り越えられないような試練を与えることはしない」
僕には、その時その時を無我夢中に生きるしか無かったのだ・・・。
そして、それが僕の唯一救いの道でもあったのだ。
皆さん元気でしたか?
僕はX.Y.Z.-Aのレコーディングの仕上げやライブやらで色々忙しくしておりました~(恐縮)
最近、押入れを整理していたら珍しいもの発見!!
↓これ

このジュラルミンケース・・・・。
80年代のアメリカツアー中に使っていたものよ!
ステッカーをよく見たら"Motley Crue world tour 85/86" Back stage passと言うのと"Lightning strikes world tour Back stage pass"とか張ってあって懐かしかった~~!!
↓ケースの中

ひゃ~~その当時聞いてたカセットテープが色々と!!!
そのカセットテープを良く見ると、LOUDNESSの色んな国のライブを自分でステージそでで録音したカセットテープ!!!!
それも結構な本数!!
ぎゃ~~物凄い貴重なカセットテープ!。
これは値段の付けられないライブテープだよ!
凄い!!貴重なライブテープがっ!!!
時間を見つけてCDRに焼いて保存しよっと!!!
きっと価値の高いものだよこれは!!
大事にしまっておいて良かった!!!
さて、やっと「歴史もの」です・・・。
待たせてゴメンちゃい!!!!!
*********************
1984年6月末
ミッシェルの日本滞在は3週間ほどだったけれど、あっと言う間だった。
ひょんなことからLOUDNESS全国ツアーに同行することになって、彼女にとって忘れられない日本旅行になったと思う。
そう言えば、LOUDNESS広島ライブの翌日、広島原爆資料館へ一緒に行った。
そこで原爆の壮絶な記録を目の当たりにしてミッシェルは絶句、瞬く間に目から涙が溢れ出たのを思い出す。
ミッシェルはしばらく話が出来ないほどにショックを受けた。
搾り出すような声で「なんて酷いことを・・・・」と言うのが精一杯だった。
僕は何て言って良いのか戸惑った。
しかしながらよくよく考えてみると、原爆を落とした国、落とされた国の男女がロックを通じて恋人同士になったのだ。
当時、戦後40年が経っていて、当然のことながら戦後生まれの男女には戦時中のことなど関係無いのかもしれないけれど、ミッシェルの涙を見ながら不思議な気持ちになったのを覚えている。
日本滞在最後の夜、新宿ロフトへ44マグナムを観に行った。
大阪出身の44マグナムは東京でいよいよ火がつき始めた頃でライブの勢いが凄まじかった。
日本のモトリークルーと呼ばれていたグラマラスな44マグナムにミッシェルは興味津々だった。
「彼等本当に日本人?みんな綺麗ね!!」
ミッシェルはポールやジミーを観て目が点になっていた(笑)
結局、ミッシェルは滞在中LOUDNESS、44マグナム、Make up, アースシェイカーを観たことになる。
「でも、LOUDNESSがやっぱりナンバーワンね!」
彼女はウインクをしながら僕の手を握った。
「当たり前やろ!」(笑)
日本滞在最後の夜だったけれど、僕は幸せだった。
翌朝、成田空港。
「叉会おうね!」
僕は笑顔でミッシェルを見送った。
ミッシェルは振り返らなかった・・・・。
成田でのお別れが本当のお別れになってしまった。
僕には別れる理由は見当たらなかったけれど、自然と僕達の熱くも淡い春は終わったのだ。
ミッシェル帰国後も、僕は相変わらず殺人的スケジュールに追われた。
1984年5月
LOUDNESSはついにアメリカアトランティックレコードと全世界リリースの契約を交わした。
文字通り、日本人いや、もしかしたらアジアのロックバンドとしては初のアメリカメジャーレーベルとの契約だったかもしれない。
少なくとも、僕にはアジアのロックバンドでアメリカメジャーレーベルと全世界契約したバンドは記憶に無かた。
念願叶っての全世界正式デビューだったけれど、僕にはあまり実感は無かった。
あまりにも「話」が未知で大き過ぎたのだ。
むしろ、日本のレコード会社、マスコミなどの業界関係者が熱かった。
そしてこの日以来、LOUDNESSには「日本初の世界進出したロックバンド」と言う肩書きがつくようになった。
「二井原アルファベッドABCを言ってみて」
当時のLOUDNESS事務所の社長が僕に聞いてきた。
「A/B/C/D/…..」
それを聞いた社長が頭を抱えた・・・。
「マジか?お前その発音・・・・困った・・・」
「えっ?」僕は困惑した。
当時の社長はアメリカでの仕事経験があって英語の発音はバリバリであった。
「はぁ~・・・二井原・・・困ったなぁ・・LOUDNESSがやっとアメリカレーベルと契約出来たけど・・お前まともにアルファベッドも発音できないんだなぁ~」
「えっ、ボ、ボクの発音そんなに酷いですか?」
「今の時点ならはっきり言って論外だよ、アルバムなんて作れないよ・・・」
「で、でもボク英語で歌うしかないですよね?」
「当たり前だろお前、今までのように無茶苦茶英語では通用しないよ・・」
「あ、はい・・・はぁ~・・・・」
「海外プロデューサーはどうするんだろなお前の英語を・・・」
僕は意気消沈した・・
怖くなった・・
完璧な英語で歌える自信などあるわけない。
英語が怖くなった。
英語が憎くなった。
(そんなん・・今から急に完璧な英語で歌うなんて・・・無理に決まってるやんけ!)
僕は泣き叫びたい気持ちだった。
(もしかしたら、このままクビになるかもしれんなぁ・・・。)
英語をしゃべる必要の無い楽器だけのメンバーが羨ましく思った。
LOUDNESSの世界契約成立で盛り上がる中、言葉に出来ない絶望感が襲ってきた。
(もう・・・俺はダメかもしれん・・・)
世界に本格的に出て行こうするLOUDNESSの置かれている立場、そのバンドのヴォーカリストとの実力のアンバランス。
僕はその致命的で絶望的な現実にぶち当たった。
(でも、僕はここから逃げるわけにはいかない。)
数ヵ月後にはアルバムが完成しているはずだけど、僕にはそれが想像できなかった。
そんな状況ではあったけれど、幸い「多忙」が僕を窮地から救ってくれたような気がする。
どんな状況でも必ず「救いの道」は用意されていた。
「神様は乗り越えられないような試練を与えることはしない」
僕には、その時その時を無我夢中に生きるしか無かったのだ・・・。
そして、それが僕の唯一救いの道でもあったのだ。
by loudness_ex
| 2009-09-25 19:36
