これで多少は更新しやすくなるか?
ほな、よろしく!
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LOUDNESSのアトランティックとの契約オファーはそれまであまり関心を示さなかった一般メディアにも大きなインパクトを与えたようだった。
今まではLOUDNESSには見向きもしなかった一般メディアからの取材も増え始めた。
でも、それはまだまだLOUDNESS狂騒曲の序章にしかすぎなかった。
「二井原、英語何とかしろよ、分かったな」
当時の事務所社長のNさんが電話口で僕に言ったあの言葉が忘れられない。
(えっ、そんなん・・何とかしろよって・・・)
どうすれば良いのか分からず途方に暮れた。
英語と言う課題は大き過ぎた、実際自分がやっていけるのかどうか分からなかった。
ミッシェルとの文通ぐらいしか英語に接することも無く、気持ちは焦るばかりだった。
そんな不安な気持ちを感じながらも、ヨーロッパから帰国して数日、1983年9月24日から全国ツアーが始まった。
全国ツアーはモヤモヤとした不安な気持ちを忘れさせてくれた。
熱狂的なファンの歓声が僕に勇気と力を与えてくれた。
改めて、ファンの人達の存在の有難さを身に染みた。
「LOUDNESSが遠くへ行ってしまうのが寂しいです」
「日本を捨てないでください」
「手の届かない存在になってしまうのが怖いです」
切実な気持ちを綴るファンレターが多くなった。
ファンの人がとても愛おしく感じた。
『僕達は君達から離れることは無い。
僕達はずっと君達と一緒だ。』
僕はそう叫びたかった。
と同時に、(こんなに応援してくれるファンの人達の為にも僕は英語なんかで不安になっている場合じゃない)と思った。
沢山の人の夢と共に僕はいる。
僕自身の為にも、ファンの人の為にもこの英語の壁は乗り越えなければならないと思った。
もしファンの人がいなければ、僕は尻尾を巻いて逃げ出していたかもしれない。
“WORLD TOUR IN JAPAN SEX UP!”と題されたツアーは東京は中野サンプラザが皮切りだった。
この日のライブはLOUDNESSにとって始めてのライブレコーディングされた。
そして一回り大きくなったLOUDNESSは全国を駆け巡った。
アメリカ、ヨーロッパのツアーでLOUDNESSは明らかに成長したと思う。
どんな機会でも良い、日本を飛び出して何かやると言うのは大事なことだ。
金銭的には大変だけれど・・・
世界の異文化を体験すると言うことは特に精神的な部分で大きな刺激を受ける。
大きな成長と言っても良いかもしれない。
僕達の人生経験においても22~23歳でそう言うチャンスに恵まれたのは幸運だった。
このツアーでの11月2日の東京渋谷公会堂ライブでは初のライブヴィデオがシューティングされた。
後にそのライブアルバムやヴィデオは”LIVE-LOUD-ALIVE”と題された。
ヘビーメタル/ハードロックと言うジャンルにもかかわらずライブアルバム、ヴィデオはチャートインを果たしてヘビーメタル/ハードロックシーンにおいて前代未聞のセールスを記録した。
「ニーやんか?」
LOUDNESSツアーの合間のある休日に電話口から懐かしい声が聞こえた。
仏教大学時代に一緒にバンドやっていた藤村幸宏こと「茶々丸」からだった。
「おぉ!!懐かしいな!どないしてんねん!大学卒業して就職したんか?」
「おぉそうやけどな・・・」
「チャチャも就職したんか、早いモンやなぁ・・・」
「ニーやんと付き合うてたI さんも無事卒業したで」
「ほんまか・・懐かしいな」
「ニーやんも頑張ってんな、こっちでもえらい人気やで!」
「ほんまにお蔭さんで目茶忙しいわ」
「それはそうとな、東京ってどうや?俺、やっぱ音楽したいねん」
「会社辞めるつもりなんか?」
「おぉ、就職したけどな、なんか音楽やるべきやと思ってな・・・」
「まじか、ほんなら出て来いや」
「ええか?ほな行くわ」
程なくして、茶々丸は仕事を辞めてギターと少しの荷物を持って僕のアパートに来た。
6畳一間のアパートで茶々丸との共同生活が始まった・・・。
髪が短くなっていた茶々丸は不安気ではあったけれど吹っ切れた感じだった。