ステージで歌っていると、80年代の曲で盛り上がる人、再結成以降で盛り上がる人、結構はっきり別れているのが分かる。
同じバンドのファンの方たちなんだけれど、その思いはそれぞれ違うのね。
バンドはもう27年目に突入して、リリースしたスタジオアルバムが21枚。
楽曲数は悠に250曲以上はある。
各時代のファンがそれぞれに思い入れのある曲が存在しているのも知っているけれど、すべての人達を満足させる方法は無いものだろうか?
エアロスミスやメタリカのような、バンド活動の長いバンド達のライブは2時間以上の長丁場になるのも無理は無い。
昔、谷村新司さんのラジオ番組に出たときにライブのメニューの話題になって、谷村さんも膨大な楽曲があるために曲選びは苦労すると仰っていた。
「二井原君、やっぱねぇ~ライブのメニューはねぇ~「安心・定番が6」で「ドキが4」のバランスが良いよ~」と言っていた。
要するに「頭3曲に安心・定番曲をやって2曲新曲か珍しい曲を交互にやる」ことだそうな。
なるほどと思ったものの、LOUDNESSの場合、各時代のファンの人それぞれ「安心・定番」の一家言をお持ちになっているので、これも極めて選択が困難なのである・・・。
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「バハマ決まったで~♪」
シャラがリーサルテープをバハマへ持って行ってしばらくしてバハマから出演OKをもらったのだ。
バハマには有名な「マスター」と「おねーさん」がいて、気に入った地元のバンド/ミュージシャンを損得勘定抜きで応援してくれる気骨のある人達だった。
その上「マスター」と「おねーさん」は将来のある若いバンドの才能を見抜く目も確かで、バハマから巣立った(プロデビューした)バンド/ミュージシャンはとても多い。
こう言う人達を我々は大事にしなくてはならない。
仮にバンド/ミュージシャンがいかに成功しようとも、こう言う陰の功労者達の存在を忘れてはならないと思う。
そしてこう言う人達と巡り合うチャンスも自分達で切り開く努力が大事だと思う。
どんな人との出会いがあるかも分からない、どんな人が見ているかもしれない。
虎視眈々とプロを目指している人はたとえお客さんが3人であったとしても手を抜いてはならない。
その3人の中の一人が将来あなたを成功へ導くキーパーソンなるかもしれないのだ。
ちなみに、僕たちアースシェイカーが始めてバハマに出た時の先輩に当たる人達は沢田研二さんや上田正樹さんが出演したりしていたとマスターは教えてくれた。
そんな大阪のロックの聖地と言われたバハマも2006年11月に閉店した。
アースシェイカーの成功もバハマの「マスター」と「おねーさん」の尽力のお陰だと断言できる。
「アースシェイカーなぁ・・・あんたらまだまだ下手やけど、おもろそうやから一回やってみぃな」と言ってマスターはチャンスをくれた。(とシャラは言っていたような・・・)
バハマのライブの日、ありったけの機材をわったんの家から3人で運び出し、わったんのスポーツカーにドラムやスタンドケースを詰め込んだ。
その機材の隙間に中国雑技団のように体を押し曲げて僕とシャラも車に乗った・・。
実は、僕のハイワットやシャラのマーシャルをどうやって運んだのかは記憶にないのよぉ~・・・ごめん。
バハマは地下にあって、二人で並ぶと一杯になるような狭い階段を使って機材を持ち運んぶ。
3人で楽器の搬入、搬出、セッティングを全部やった、本当に重労働だった。
アンプも重かった、スタンドケースも死ぬほど重かった。
こう言う時3人組は辛い。
勿論ローディーなんて気の利いた人達はいない。
と言うかローディーと一緒に仕事をするようになったのはLOUDNESSに入ってからだ。
要領の悪い3人が汗びっしょりになりながら楽器をセットした。
サウンドチェックもやった、その時はマスターがPAをやってくれていた。
ステージ上にモニターと言うものは存在していなかったし、サウンドチェック事態はあっという間に終わった。
でも、サウンドチェックが終わった頃にはヘロヘロに疲れきっていた。
楽器のチューニングを終えステージ衣装らしきものに着替えた時にはもう歌う元気も無いほどだった。
バハマは2ステージ制だった、45分のステージを2回するのだ。
ライブハウス出演は想像以上に過酷な肉体労働だと悟った・・・。
(うわ~これはきっついなぁ・・・・2ステージも歌えるかなぁ・・・・・)
僕は2ステージのことを考えると気が遠くなっていた。
もはやライブ前に戦意喪失である。
重労働の疲れよりも、初めてのライブハウス出演のあまりの緊張でパニックを起こしていたのだと思う。
お金をいただいてのライブが始まった・・・
二井原 実18歳、ロック人生の幕が本格的に上がった瞬間である。